「ラヴレース」
伝説のポルノ映画「ディープ・スロート」、公開は1972年ですから、題名こそ知っているものの、学生が見に行ける訳のない頃の作品。その主演を演じた女優リンダ・ラヴレースの半生を描いた作品です。監督はロバート・エプスタインとジェフリー・フリードマン、主演は大好きなアマンダ・セイフライドです。
ちょったかわった構成の脚本に、思わず、なるほどと思わせる魅力のある映画でした。
映画が始まると、いかにも明るい主人公のラヴレースの姿。そして、優しいチャックとの出会いから、一気にポルノスターに上り詰めるまでが描かれていく。そこには、華やかに順風満帆、自らの意志で上り詰めたラヴレースの姿がある。しかし、何気なく挿入される意味深なカット。
そして物語は6年後、嘘発見機のような機械にかかる彼女の姿のあと、今まで描かれていた映像がかぶり、実は、チャックという男は暴力的な人間で、いやがるラヴレースを自分の借金のために、ポルノスターにし、売春を強要していた。逃れようと実家に戻ってくるラヴレースだが、厳格なカトリック教徒の母に、女は夫に仕えるもの、服従するもの、ましてや離婚などとんでもないという教育を徹底されていたのだ。
やがて、映画は成功するが、その陰には、目先の借金に追い回され、自分の利益だけを考え、アダルトグッズや、妻を金の道具にするいけ好かない男として存在するチャックの姿が描かれていく。
6年後、嘘発見機(ホリグラム)で、リンダの自伝に書いたことの真実を証明され、リンダ・ラヴレースの真実の自伝が出版されるのである。すでに、リンダは、新しい夫との生活、子供にも恵まれ、両親のところに出向き、真実のリンダの姿を知った両親が、リンダを抱きしめてエンディングになる。
ドキュメンタリー出身監督らしいしっかりとしたカメラアングルで、とらえていく映像は、奇抜なものはないものの、一人の女性の、表の姿と真実の姿を見事に映像にしていき、周りに配置された芸達者な演技者たちによる真摯な映画として、一見の価値のある一本に仕上がっています。アマンダ・セイフライドの魅力もしっかりと映し出され、いい映画だったと思います。
「十五少女漂流記」
原作が遊川和彦という、時にテレビドラマの脚本で、おもしろいものを書く人でもあるので、見に行きました。もちろん、自主上映です。
それほど期待していなかったのですが、これがかなりの秀作でした。少女たちの心の変化、そして心の成長が見事に描けているし、自然を雄大にとらえるフィルムならではの美しい映像と、喜多郎のメロディとのマッチングも見事で、登場する少女たちの、みずみずしいほどのはじけるような演技も初々しくてすばらしい。
物語はジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」を元にしています。インドネシアに交換留学生できた女子高生と女子中学生たちが、現地の踊りに、はしゃいでいるシーンから始まる。いきなりの民族舞踊に呆気にとられていると、物語は、のりでついつい地元のオンボロ船に乗り込んで、夢の島へと展開する。よく考えればリアリティは関係なく、ここからはファンタジーである。
そして、ふとしたことで、取り残され、無人島で暮らすことになる少女たち。初めての夜にウミガメの産卵に遭遇し、主人公千夏の妹の死、度重なる船やヘリコプターの接近のたびの危機と、どんどんストーリーは前に前に進む。そして、少女たちの心も、どんどん強くなっていく。
そして、一人の少女が妊娠していたことがわかり、やがて、冒頭のウミガメのふ化、そして出産と、膨大な時間が過ぎていく。そして、いつか少女たちは精神的に自立していく。そんなある日、救助の船がやってきて、無事日本へ帰るのだが、すでに彼女たちの心の中には、別のものが芽生えている。あんなに帰りたかったのに、複雑な表情を見せる船の中のショット。
やがて、千夏は未来にいう「私たちが帰りたかったのはこんなところ?」人混み、車、電車、ビル群。彼女たちの前に広がる大都会。圧巻のクライマックスである。
そして、未来は千夏に別れを告げ、島に戻っていってエンディング。
夜、滝の落ちる水辺で、妹が死んで落ち込んだ千夏のために未来が、月に向かって吠える。フィルムでしか表現できない奥行きのある深いカラー映像が実にすばらしい効果を発揮するシーンです。
千夏と未来の別れのシーンはなぜか涙があふれてきました。本当にいい映画でした。