くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ゼロの未来」「国際市場で逢いましょう」「イマジン」

kurawan2015-05-18

「ゼロの未来」
とにかく、近未来の町並みのシュールな造形美に目を奪われる。

サイケデリックなほどに散らばった色とりどりの看板、人の歩く後を追いかけるように移動するディスプレイの広告、巨大なスクリーン、斜めに配置される広告塔、様々なことを禁止する公園の看板、どこかレトロでいて、明らかに空想の世界、この吹っ飛んだようなシュールな感性は、並の映画とは何だったのかと疑問を呼び起こすのです。

監督はテリー・ギリアム、それを聞くだけで、この映像世界のシュールさに納得してしまう現代の才人監督である。

物語は、教会にこもって、一人ゼロを追求する天才プログラマーコーエンの物語。キリストの像の頭が取り除かれて、監視カメラがコーエンをにらんでいる。いや至る所にあるカメラが彼をとらえている。

映画はコーエンが勤め先に出かけ、在宅ワーカーになる下りから始まるのだが、前述の造形美に牽かれている間に、ストーリーを追いかけ忘れてしまった感じである。

ある日、パーティの席で魅力的な女性ペインズリーと知り合う。コンピューターのプログラムで彼女とデートをするものの、後一歩で、彼女をものにできない。そんな中、ゼロの解明に苦慮する彼の前に現れたのが、コーエンの雇い主の息子ボブ。彼との交流とペインズリーとの関係に、次第に、何か人間的なものが見えてくるコーエン。

と、前半何度か眠気に逆らいながらとらえたストーリーであるが、これで正しいかどうか、やや不安。それほどに、全体が吹っ飛んだシュールな感性に彩られているのである。

カメラは、自由自在に角度を変えて被写体をとらえ、縦横無尽に移動する。さらに、ボブを送り届けるノッポとチビデブのファンタジーのようなわき役の登場が、さらにストーリーを抽象的に飾っていく。

そして、ボブも去り、ペインズリーも去り、一人コンピュータープログラムに接続するが、機械は大爆発。すべてが破壊されて、彼はブラックホールの奈落の中へ、そして、ペインズリーとデートした浜辺に一人立ちすくんでいる。

ビーチボールをつかみ。、太陽をつかみ、安らいだ表情の中暗転、エンディング。

喧噪から安らぎへとストーリーの大きなうねりの中に、近未来のシュールな世界がちりばめられている。まさしくテリー・ギリアムの世界感だが、時間があればもう一度ゆっくり、この映像を楽しんでみたい気がする。そんな映画でした。


「国際市場で逢いましょう」
韓国の民族性を目の当たりにする作品。映画は、素直な映画で、軽妙なテンポと笑いの中に、人情ドラマを埋め込んでいくあたり、なかなかうまいし、クレーンを多用した大胆なカメラワークが、暗くなりそうな展開をうまくいなす効果になり、なかなか良かった。

韓国映画としてみなければ号泣するストーリーで、ラストは、押さえていたものの、素直に、胸が熱くなりました。

映画は現代の国際市場に始まる。頑固なじいさんドクスが悪態をついているシーン、蝶が舞いながら、とある建物の屋上に行くと、そこで年老いた老夫婦ドクスとヨンジャが昔を語り始める。

時代は朝鮮戦争、逃げる幼い主人公ドクスたちの家族、アメリカの船に乗せてもらうため我先と船にぶら下がりあがるが、ドクスの妹が後ろからひきはがされて、海に落ちてしまう。そして、父は妹を捜すため、幼いドクスに後を託し、船から飛び降りる。

命からがら、叔母の店にたどり着いた母とドクスはそこで暮らすことになる。ドクスとそこで知り合った友人のダルグ、映画はここから現代に移り、また過去に戻り、朝鮮戦争から、ドイツの鉱山での労働、将来の妻ヨンジャとの出会い、ベトナム戦争と、父が最後に残した言葉を守って、家族のために必死で生活を支えようとするドクスの姿を追いかけていく。

演出は、きわめて軽快で、明るい。次々とコミカルなカットもたくさん取り入れて、悲惨な話も多々あるにもかかわらず、明るい展開で進む。

クライマックスは、別れた妹捜す大広場のシーン、そして再会、大家族との団らん、そして、ドクスとヨンジャの冒頭のシーンに流れてエンディング。

期待していなかったが、映画としても無駄な区おもしろく、素直に見ればかなりの感動ドラマだった。いい映画でした。


「イマジン」
ある病院の入り口の門、犬がきてほえるから鉄の門を開けると一人の盲目の男が立っている。こうして始まるこの映画、主人公イアンは盲目の人々を教育するためにこの病院にきたのです。しかも、彼は杖を使わずにふつうに歩行し、交差点をわたり、歩行をする。ただ、聞こえてくる音の変化だけを読みとる。

監督はポーランドのアンジェイ・ヤキモフスキ。

物語は、このイアンがこの病院で、少年少女に音を感じることの大切さを教え、さらには隣の部屋の女性エヴァとの淡い恋を交えて描かれていく。

余りにふつうに歩くので、周辺の人々に疑念が生じるが、実は彼は義眼であることを一人の青年に見せたりする。

それでも、目の見える職員たちからの疑いで、結局、庭の穴に落ち、それ見たことかと、杖を強制されるが、一方で彼に感化された青年やエヴァとの関係が深まる。

エヴァと初めて外にでたイアンは、サクランボや、カフェで見える船の話をするが、後にエヴァが青年とそのカフェに行くと、そんな船はないし、サクランボも店で売っていたものだとわかる。

そのことをイアンにいうと、他の人は、別のことに夢中で気がつかないだけだという。

ラスト、イアンが病院をでていくことになり、一人彼の後を追ってカフェにきたエヴァの前に、たくさんの建物の向こうに巨大な客船が通り過ぎる。すべては正しかったことを、見えない目で感じたエヴァ、そばにイアンが座っていることに気がついて、立ち上がってエンディング。

ラストシーンが実にすばらしいし、映画的なのだが、後半部分、イアンを疑う下りのエピソードがややくどい。カメラは常に人物を真正面からとらえ、人物が向かう先にあるものがなにかをいっさい見せないという演出で、クライマックスを引き立てた構成は確かにうまい。

後半部分、もう少し整理すれば、見事な一本に完成した気がします。とはいえ、なかなかクオリティのある映画でした。