くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「トリュフォーの思春期」「散歩する侵略者」

kurawan2017-09-11

トリュフォーの思春期」
瑞々しさと初々しさが弾けるような素晴らしい一本の映画、そんな形容がぴったりな素敵な映画でした。監督はフランソワ・トリュフォーです。

一人の少女が絵葉書を買いに店に入り、その絵葉書をポストに投函するシーンから映画が始まる。カットが変わるとその絵葉書を授業中に机の上に置いて見ている小学生。その絵葉書を先生が取り、その説明を始めて授業が進む。

映画はある小学校の生徒たちのさりげない日常の小さな出来事を次々と描いていきます。そのテンポの良さといい、初々しさといい、見ていてワクワクしてしまうのです。

10階のベランダから落ちて何事もなかった幼児の話。家で虐待され、盗みや小犯罪を繰り返す少年の物語。近所の大人の女性に恋をしてしまう小学生の話。先生の夫婦の出産。などなど、誰もが経験したようなさりげないエピソードがユーモラスにそして軽やかに描いていきます。

カメラがとっても素敵に子供達を追いかけていくので、次に何が起こるのかワクワクしてしまう。子供達の服装や街の景色、アパートの作りなどに美しい色彩演出を施した画面作りも素晴らしい。

流れる音楽のリズムが映像にテンポを生み出して行って、さらにエピソードのつなぎ役にもつながる。

画面全体から広がる思春期の瑞々しさが、映画の範疇を超えた爽やかな気持ちにしてくれます。

大人の女性に恋をしていた少年は林間学校で一人の少女と知り合い、キスをして恋を知る
そして子供達が画面いっぱいに映り笑顔いっぱいになってエンディング。もう素晴らしいの一言につきます。


散歩する侵略者
舞台劇の映画化らしいが、それを知らなくても、これは明らかに舞台劇の範疇のものでスクリーン向きでは無いような気がします。もちろん、脚本を大幅に改変したならありえるかもしれませんが、舞台上で客席から演者を凝視してこそ見えてくる感動が、スクリーンにしたために散漫になって散ってしまった気がする。クライマックスは思わず胸が熱くなるのに、その後のスペクタクルで飛んでしまう感じでした。監督は黒沢清

金魚すくいをしている一人の女子高生、彼女が家に帰ってくるところから映画が始まる。次のカットで、女子高生は血だらけになって自分の指を舐め、道路をふらふらと歩いているとトラックが走ってきて横転、タイトル。なかなかのオープニングですし、ここは映画的でうまい。

場面が変わると、鳴海という女性の夫が、突然行方不明になり戻ってきたと思ったら、腑抜けのように訳のわからないことを呟きだし、困っている。この二人の夫婦の描写が続き、どうやら、人の頭の感情というか概念を抜き取ることができる未知の生き物になった風の真治が写される。

一方ここは一家惨殺事件で、一人、この家の娘あきらが行方不明で、どうやら冒頭の女子高生らしい。その記事を頼まれたジャーナリストの桜井は、あきらの家を見ているところに一人の若者天野が近づいてきて、自分は宇宙人で侵略者であり、あきらを探すためのガイドになってくれと言う。当然、信じない桜井だが、それを記事にしようと思ううちに、信じるようになる。折しもあきらを見つけ三人で、地球侵略の通信機を作ることになる。

ここに厚生労働省の役人という男が現れ、なにやら、天野たちを殺そうと近づく。やたら、機関銃が出てきたりいかにもリアリティがないというか、ここが舞台的なのである。

一方の鳴海と真治だが、冷めていた夫婦仲が、真治の行動を追ううちに鳴海は夫婦仲が何気無く戻ってくる実感を感じ始めていた。そんな時、天野たちはとうとう真治と出会う。こうして最後の物語へ進んでいく。

彼らを追う厚生労働省の役人たちが攻撃し、天野たちは倒れるが、桜井がすんでのところで通信機を作動させる。一方の、真治と鳴海は、天野たちから離れ二人で街を出ていくのだが、最後が迫り、鳴海は自分から愛の概念を取るように真治に迫るのだ。やがて侵略が始まり、・・・・・

2ヶ月後、とある医療施設。
真治は何事もないようにボランティアらしい仕事をしている。そこに鳴海が入院していて、なぜか廃人のようである。病院の職員のセリフで、なぜか突然侵略がやんだ理由がわからないという。要するに愛が地球を救ったというエンディングなのだが、鳴海が真治に愛の概念を与えるラストは胸に迫ってくるのですが、そこまでの経緯が実に弱い。

作りが薄っぺらく見えるのはスクリーンになったためだと思え、舞台劇のままなら、その辺りの欠点は完全に隠れてしまうのではないかと思えるのです。ちょっと、作品選びを間違えた感じの一本でした。