「宴」
重厚な物語展開と圧倒的な映像世界の中で描かれるあまりにも可憐すぎる悲恋物語。古き良き日本映画の真骨頂を垣間見られる一本で、本当に見ごたえがあった。監督は五所平之助。
雪が深々と降る中、塀のこちらから家屋を見下ろすカメラ、そして室内に入ると能を舞う一人の男、そして身支度をして外出しようとするその男を見送る一人の女鈴子、足元がただの草履だと気がつき雪駄に履き替えさせる心遣いから映画は幕を開ける。時は昭和5年に遡る。
兄が入院した病室で、鈴子は兄の親友の館を迎えていた。同じ士官学校だった館と鈴子の兄世紀だったが、世紀は思うところがあり軍人にならず文人の道へ変わる。鈴子は密かに館を恋していたが、館には、現在の政権への疑問が占める割合の方が大きく、鈴子への思いを受け入れられなかった。
まもなくして、世紀がアカの疑いを受けるようになり、鈴子の父親も世紀を勘当してしまう。館への想いが遂げられない中、鈴子は能の宗家の次男との縁談の話が舞い込む。館を誘い、なんとか自分の思いを受け入れてもらおうとするも館には踏ん切れない。そんな中、鈴子は能の宗家に嫁ぐ。しかし、夫婦生活は殺伐としていた。やがて、館に満洲赴任の話が出てくる。一方、若い青年将校達は昭和維新を実現すべく血気盛んとなっていく。そんな中に館もいた。
満州への赴任が迫る中、鈴子は館を歌舞伎見物に誘う。その帰り大雪になり、路面電車も止まり、鈴子と館は雪道を歩いて帰路に着くが、途中、鈴子は倒れてしまい、館は鈴子の指を噛んで凍傷にならないようにする。
やがて、青年将校達は決起し、ニニ六事件が勃発。結果、館らは死刑を言い渡される。獄中の館に会いに、今では宗家と離婚した鈴子と世紀が訪ねる。そして館の処刑の日、鈴子は海に身を投げる。こうして映画は終わっていく。完璧な構図と、しっかり描かれた物語が秀逸な一本で、さりげない悲恋物語がまるで行間の物語のように描かれている演出が見事。古の佳作という感じの一本でした。
「ミナリ」
これは良かった。映画のリズムが実に良いし、さりげないインサートカットが絶妙のテンポを生み出し場面を転換していく。さらに、ありきたりのドラマなのに、さりげないシーンにさりげなく埋め込まれる機微がとっても胸に染み入ってきます。映画としてはとっても良いのですが、なぜ韓国人?という疑問だけが引っかかった。監督はリー・アイザック・チョン。
韓国系アメリカ人のジェイコブとモニカ、そして娘のアンと心臓に障害のあるデビッドが、アーカンソーの新居へ引っ越して来る所から映画は始まる。何もない広場に置かれたトレーラーハウスに、モニカ達は呆然とするが、夢だった農場を開くことだけ考えるジェイコブは強引のここに住み始める。
何もない空き地を農地にするべく準備を始めるが、何事も合理的なジェイコブは水源を見つけるためのダウジングを信じず、自分の勘で井戸を掘り出したりする。そして中古のトラクターを買い、ポールというアメリカ人の助手を迎え農業をはじめる。しかし、最初から乗り気ではなかったモニカとは何かにつけ喧嘩をする。二人はひよこの選別の仕事をしていてそれで生計を立てていたが、農業への出費が嵩んでくる。
喧嘩が続くモニカは韓国から母を呼び寄せることにする。韓国から来たスンジャは、ミナリ=セリを川岸に植えたり、何かにつけてどこか生活が違うところを見せ、孫のデビッドは最初は疎んじる。しかし、そんなスンジャに次第に惹かれてくるデビッドは、行動を共にするようになる。そんなある時、スンジャが脳卒中で倒れ、不自由な体になってしまう。
モニカはジェイコブと別れる決心をし、デビッドをもう一度病院で診察してもらうが、なんとデビッドの心臓の病気は改善してきていた。そんな頃、何かやろうと不自由な体でゴミを燃やそうとしたスンジャは、誤って農作物を保管している小屋に火を移してしまう。
戻ってきたジェイコブたちの防火も虚しく小屋は全焼してしまう。途方に暮れて歩くスンジャを、今まで走ってはいけないと言われていたデビッドが走って引き止める。
カットが変わり、ダウジングで水源を探し、トレーラーハウスの中で雑魚寝する家族のカットと、ぼんやり座るスンジャのカットで映画は終わる。シーンの転換点に静かなカメラワークとインサートカットを挿入し素朴な自然をさりげなく描きながら、一つの家族の一時の切り取られた時間を描いていく。そのなんのことはないドラマがとっても美しい。ただ、なぜ韓国系アメリカ人でないといけないのかはちょっと疑問でしたが。