「コールド・ウォー 香港警察二つの正義」
香港映画というのは本当におもしろいなと改めて感じる。決して芸術を追究しない姿勢の潔さが、何とも楽しいのだが、それでいて、退屈ということがない。
最初のタイトルバックで、大勢の人物が紹介される。それも、警察内部の実行部と管理部、さらにそれらを取り締まるICAIという外部組織である。最初は覚えないといけないかと思うが、そんなことはどうでもいいのだと途中で知って、そして本編を楽しむ。
次々と出てくる人物に戸惑うのだが、いつの間にか物語の展開に何の問題もなく入り込んでいくのだから、全くこのあたりは香港映画はうまい。そこには、ただ、娯楽一筋に走ってきた香港映画界の、熟練した脚本力があるのだろう。監督はリョン・ロクマンとサニー・ルクである。
タイトルが終わると、香港の町でいきなりの爆発、そして時を同じくして、酔っぱらい運転をする車を、五人の警官が乗った車が追跡するシーンから映画が始まる。
スリルとスピード感あふれる展開から、酔っぱらい運転の男を逮捕して、物語は本編へ。
冒頭の警官五人と武器が拉致され、警察本部へ脅迫の電話が来る。その五人の中に行動班のナンバー2、リー副長官の息子が拉致されている事件に始まる。ここに管理班のナンバー2、ラウ副長官が登場し、二人のリーダー争いの展開へ。その緊迫感あふれる話と、それに続く、ラウ副長官が身代金を届けるシーンへ。そして、事件が一段落して一ヶ月後、ラウ副長官への収賄疑惑のたれ込みがあり,ICACが登場して後半へ。
次々と物語が先へ先へ進むスピード感と、緊張感にただただ、物語を追いかけていく。
ラウの右腕が殉職し、リーとラウはICACの登場で、仲間内になり、そんな中、本当の真相はいかなるものかというミステリーな展開へ。ドラマティックな展開がどんどん、作品を押し進めていく勢いが見事。
結局、犯人はリーの息子ジョーで、最後に彼が逮捕され、それでも実行犯は逃げたままでエンディング。
リーが退職、ラウが長官に。そしてラウのところに一本の電話がかかり、ジョーを釈放しろという犯人の声。ラウの妻と子供を誘拐したようなシーンのあと暗転、エンディング。
と、始まってからラストシーンまで、あれよあれよ緊迫感あふれるドラマを見せきってしまう。しかも、CGや派手なスペクタクルシーンなどもほとんどなく、ひたすら、警察内部の緊張感あふれるドラマに終始する。もちろん、花火を使った銃撃戦などの工夫された派手なシーンは存在するが、このうまさは、やはり香港映画の実力である。本当におもしろかった。
「ブッダ・マウンテン〜希望と祈りの旅」
これは、なかなかいい映画だった。なんといっても映像のセンスが抜群にいいために、何気ない展開の物語なのに、決して混乱しないし、飽きてこない。しかも、人物の描写、物語の先行きが、きれいに映像の中で語られているから、そのセンスの良さに、引き込まれる。監督はリー・ユーという女性である。
映画は三人の若者と、かつての京劇のスターだったユエチンとの心の交流である。ただそれだけの物語なのだ。もちろん、それぞれの人物に、隠された過去があり、それが、ストーリーが進むにつれて、さりげなく、描写される。そのさりげなさもまたいいのである。
物語は、かつての京劇女優だったユエチンが、京劇の練習場所にいるところから始まる。しかし、過去の人になった彼女には居場所もなく、すごすごと帰宅。彼女の息子は誕生日に恋人と出かけたときに交通事故で死んだらしい。
ここに、バーで歌手をしているナン、そして彼女の友人のイケメンの青年ディン、その友達のデブの男の子ふとっちょの三人の若者がいる。彼らも行き場を亡くし、親とも確執があり、家を出ている。今住んでいるところが取り壊されることになり、たまたま下宿をし始めたチャンのところに転がり込んで、本編が始まる。
お互いに、若者と初老の婦人という関係は、最初はなじめない性格で、すれ違いばかりだが、ある日、チャンが手首を切って自殺未遂をし、それをディンたちが助けて、急激に接近していく。
手持ちカメラを多用した撮影、次々と巧みにつなぎあわせるシーンの連続で、何気ない物語にテンポのよいリズムが生み出されていく様は見事である。
舞台は四川省成都、地震の爪痕が残る中で、彼らは崩れた山奥の寺観音山を再建する手伝いをする。そして、完成して、滝が降り注ぐ山を見えすえながら、次の未来へと踏みだそうする若者たち。息子の死の悲しみから逃れたかに見えたユエチンが青年たちにほほえみかける。ところが、遠くに見えていたユエチンが、突然姿を消す。青年たちがそこにいってみると、眼下に大河が流れている。彼女は身を投げたのだろうか?
青年たちは、なぜか悲しみとも喜びともつかない表情で列車の荷台に乗りトンネルをくぐる。エンディング。感慨深いラストである。
何気ない展開を前後につなぎあわせ、時間と空間を巧みに操りながらのフィルム編集がすばらしく、次第に親しくなって心を開いていく若者とユエチンの関係が見事に描かれている。
ファーストショットで、トンネルから抜けるシーンから始め、ラストで同じショットで締めくくる。このスピード感というかリズムが卓越した監督の才能を伺わせる一本でした。
「赤線地帯」
初めてみたのは30年以上前ですが、そのときも、何とも恐ろしげな映画だと思いましたが、今回も、不気味なほどに鬼気迫る迫力を感じました。いうまでもなく溝口健二監督の遺作である。
カメラが宮川一夫、美術が水谷浩と、何度となくそのすばらしい映像に酔ったのですが、この作品、とにかく、人物をとらえるショットが、フルショットからバストショットが非常に多く、溝口健二作品によく見られる、画面のほんのわずかに人物を配置するという、広い空間を利用した構図が少ないことに気がつく。それゆえに、ひたすら、人生の底辺に落ちた感じのする娼婦たちの表情がこちらに訴えかけるように迫ってくるのである。助監督についたのが増村保造であり、彼の演出に似ていなくもないところから、ある程度の影響はあるかもしれない。
とにかく、背後に流れる黛敏郎の西洋鋸を多用した、よく幽霊の登場シーンに流れる不気味な音楽が頻繁に挿入されるし、時は売春禁止法が成立する直前の、どこか殺伐とした世間の風が見え隠れするあたりが、実に恐ろしげなのだ。
必死で身を売って育てた息子に、汚いとさげすまれ、狂ってしまう女、父の極道に嫌気がさして、神戸から吉原になってきたモダンな女、肺病の夫と赤ん坊を抱えて、身を粉に働く女、吉原から足を洗うために客をもてあそび金の亡者になって、やがて、足を洗って商売をする女、それぞれに名前もあるが、この作品ではあえてそれは書く必要もないかもしれない。
再三、どうして女が身を売らないといけないのかというせりふを登場させた溝口健二は、遺作で、とうとう売春禁止法成立間もない吉原を舞台に、女の生きざまを描いているのである。
ラストで、それまでお茶くみだった女の子が、初めて店に出て、いらっしゃいと客に手を振るエンディングは有名だが、一方で、あっけらかんと飛び回る京マチ子が抜群にすばらしいのも特筆できる。
何度みても名作であるが、全盛期でこの世を去った溝口健二監督、実に惜しい才能だったと今更ながら再認識してしまいますね。