「神さまの言うとおり」
正直、なんなの?という映画だった。さすがに三池崇史監督、こういう訳の分からない映画を撮りたかったのね。という感想です。
原作はコミックらしいが、その世界観も、ストーリーの展開も、よくわからない、というか、筋道立てて、理屈を考えて、原因結果を求めていたら、全く理解できない。
いきなり、教室で、教壇の上のだるまが「だるまさんが転んだ」とつぶやきながら、教室の高校生を殺しているシーンに始まる。ここからして、度肝を抜かれるというより、あきれる。
そして、その説明がどこでなされるのかとストーリーを追いかけていくが、次は体育館で招き猫に殺されてくる。それでも、まだ順当な物語をさがすが、次は訳の分からないキュービックが世界の上空に現れて、その中でコケシと”かごめかごめ”をする。
結果、また犠牲者がでて、次はシロクマとの戦い、マトリョーシカとの”缶けり”をクライマックスに、結局、二人だけが残る。
引きこもりの男が、突然部屋をでて、なにやらつぶやいて登場。神様という男がいきなり画面をにらんで暗転エンディング。
原作があるのに驚いたが、どう感想を書いていいのかわからない映画だった。結局なんなの?そんな作品。三池崇史さん、まいりました。
と、感想を書いて振り返ってみると、もう少し、説明シーンがあったら、独特の世界観の一品ができた気がする。その意味で脚本の未完成すぎたのかもしれません。ちょっと、惜しい映画だったのかも。
「紙の月」
吉田大八監督期待の一本。
「桐島・・・・」のようなシャッフルした構成で見せる演出はされていないが、映画がリズムを持って動いている様が見事。音楽の挿入センス、動きのある映像、編集の長さのタイミングが、抜群にテンポがいい。
映画は、派遣社員になったばかりの主人公梅澤梨花が普通に外回りをしているシーンに始まる。そのシーンに先立って、クリスチャンの女子高で賛美歌を歌う学生時代の梨花。そして、寄付という施しを説明するシスターのショット。画面は戻って、金持ちの家に国債のセールスをする梨花、孫光太との出会いへ続く。
普通の夫婦生活だが、どこか自分は、脇にやられている感の梨花は、ある日、化粧品を買う際にお金が足りず、集金した1万円を一瞬拝借する。しかし、この行動が、後に光太に金を融通する際に書損証書のトリックへ進んでいく。
若い男性との情事に溺れる梨花は、さらにエスカレートしていく。この展開のスピード感がうまい。しかも、圧倒的に存在感を見せるのが小林聡美演じる隅の視線。彼女の冷静そのものの視線が作品を締めていく。確かに、犯罪にひたすら走る梨花の物語だが、どこか隅は羨ましく思っていたのではないか。この絶妙の心理状態を、見事に演じている。
羨んでいるものの、立場として、梨花の不正を暴き、クライマックスへ持っていくのが隅だが、いっぽうで、いずれは終わることを覚悟していた梨花も、あっさり光太と別れる。
このどこか冷めたようなこだわりのなさが、映像で見事に再現されているのである。
最後は、会議室で責められた梨花は、さらに隅との会話のやり取りののち、窓ガラスを割って逃げる。「一緒に行く?」と誘われた隅が、それは思いとどまる。そして、梨花を逃してやる。不正を暴いたのは自分だが、手放しで梨花を捕まえられない自分の姿を見せる隅の行動もかなり面白いのである。
心理描写も見事で、原作こそ読んでいないが、欲望に溺れた自分を褒めてやりたくなる梨花の微妙さが素晴らしく描けている。単なる金融犯罪サスペンスとは違った、欲望へのこだわりと達成感に向かっていく主人公の心理ドラマとしての装いが見事なのである。
エピローグは東南アジアのどこかを歩く梨花のショットでエンディング。上海に行った夫は?梨花と別れた光太は?その余韻を残したラストシーンがまた見事。
今年最後にようやく日本映画の傑作に出会った気がします。