「天空の蜂」
久しぶりに日本映画の娯楽作品の傑作に出会った感じです。冒頭の舞台設定からスピーディな展開、そして二転三転するストーリー展開に加え、犯人探しのミステリー性の面白さ。どれもが的を射ているし、演じている俳優たちの表情、声の色、カメラワークどれもが、絶妙のバランスをとって、見せ場を作っていきます。まさに監督堤幸彦の演出が冴え渡る傑作でした。
映画は、主人公湯原の家族が、新しくできた巨大ヘリコプターの見学にやってくる場面に始まる。そして、子供が、ヘリにいたずら半分に入り込む。一方で、何やら犯人が、ヘリをリモートコントロールしようと待ち構えている そして、飛び立つヘリ、連れていかれる少年、一気に原子力発電所上空にとどまり犯人の要求から本編。実に短時間でここまで一気に引き込む。
もちろん、東野圭吾の原作の完成度が貢献しているとおもいますが、その原作を脚本に変換した手腕も評価できると思う。
原子力発電所に集まってくる様々な人物もまたいい。主人公の湯原の知人でもある原子力のエキスパート三島、研究所の所長、刑事、その助手、それぞれが見事な人間ドラマとして描かれているのが今回の東野作品の映画化の成功点の一つである。
次々と繰り出される対応策と、政府の動き、さらに、一つまた一つと解決されては新たに生まれる危機と、ドラマが絶妙に交錯してどんどん絡んでくる。まさにストーリー構成の素晴らしさである。
そして、カメラと演出が、絶妙の長さでそれぞれのドラマを組み合わせていくテンポも実に素晴らしい。時にスローで、時に長回しで人物を追いかけ、時に狭い空間に配置する。行き詰まる緊迫感がそのそれぞれの映像に絡み合ってくる空気の面白いこと。
そして、犯人が見え、しかも、事故死してしまい、新たな危機に出くわしたところで、真犯人というか共犯の三島が浮かび上がり、さらに赤嶺が捕まるという、これでもかというほどの畳み掛ける展開に、スクリーンから目を離せない。
クライマックスは、ヘリが落ちる時間となり、こうなればいかに落下地点をずらすかという展開から、さらに仕掛けがあって、爆発したヘリが急速落下。
まぁ、面白いストーリーとはこういうのをいうのでしょうね。
難を言えば、エピローグで、おそらく原作にはないだろう東日本大震災の救助シーン。この一歩手前で、スパッと終われば大傑作だったろうに、これも商業映画の宿命でしょうか。でも面白かった。
「姉妹」
古き日本の風情が見えるちょっとした秀作。監督は家城巳代治である。
女学校から帰る姉妹のシーンから映画が幕を開ける。山奥の発電所で働く両親から離れて町のおばさんの家に居候して学校へ通う仲の良い姉妹。物語は落ち着いている姉と、天然でストレートな妹の二人を通じて、何気ない日常を描いていくが、所々に貧困や労働問題という新藤兼人の脚本の色も見え隠れする。
物語は、姉の結婚で姉妹が離れ離れになるシーンでエンディングだが、ほんのわずかなお金のために苦しむ人々のやるせないほどの寂しさ、哀愁、さらに経済的なことから好きな人とも結婚できないことを受け入れざるを得ない当時の世相が、切ないほどの映像演出で見せてくる家城巳代治の演出がなんとも悲しい。
時代色があるために古さを感じざるをえないのだが、オーソドックスなカメラワークで描く人情ドラマは、かえってそのテーマを切々と訴えかけてくる気がします。
「太陽のない街」
強烈な映画である。ある意味、底がないほどに悲惨な物語と言えるが、それは、現代の視点から見た感想であるかもしれない。監督は山本薩夫である。
物語は東京の下町のトンネル長屋と呼ばれるドヤ街。時代は大正の末期。この町の人々は地元の大同印刷で低賃金で雇われ、生活をしている。しかし、38人の労働者が強制解雇されたことから労働争議が起こる。こうして、この映画の物語が始まるのですが、争議が長引くにつれ、生活は困窮を極め、闇で仕事につくもの、娘を女郎屋に売るもの、心中するもの、裏切るものまで出てくる。さらに警察や経営者側のヤクザなどの妨害が続き、作品はその弾圧に必死で耐える争議メンバーの姿を追っていく。
終始、悲惨な展開と忍耐のシーンが2時間以上続くのがとにかく辛いが、山本薩夫の演出は、辛辣なほどに、真正面から捉えていく。
クローズアップ、俯瞰で捉える群衆シーンを多用するが、トンネル長屋が実にせせこましいし、入り組んでいるので、息苦しくなるのだ。そこへ、悲惨なエピソードの連続なのだから、正直、見ている側も沈んでしまう。
クライマックスは、警察の仲裁も断った争議幹部が捕らえられ、新幹部が大会で妥協する旨を伝えると、大騒ぎとなり、組合の旗を、次を担う若者が掲げて、カメラはその旗のアップでエンディング。
もう圧倒である。これこそ、社会派山本薩夫の真骨頂かもしれません。