くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「よだかの片想い」「川っぺりムコリッタ」

「よだかの片想い」

なかなかいい映画でした。原作があるので、なんとも言えませんが城定秀夫の脚本が良い。さりげなおセリフに散りばめられた、胸に刺さる一言二言がとっても考えさせられるものがあるし、脇役に至るまで存在感がしっかりしていて、映画を見ていて、安心してストーリーを追うことができます。あえて、色彩を抑えた画面も、訴えたい何かを感じさせてくれていい。思いの外いい映画だった感じです。監督は安川有果。

 

左の頬に大きなアザのあるアイコが、自分の記事も載った本のための表紙写真を撮ってもらっているところから映画は始まる。たまたまその脇を映画監督の飛坂が通りかかり、興味を惹かれる。アイコの本は話題になっていった。そして映画化の話が密かに進み始める。ある時、映画関係のスタッフとの親睦会に誘われたアイコは、そこで映画監督の飛坂と出会う。

 

アイコは理系学部の女子大生で、陽気なミュウ先輩といつも楽しい生活を過ごしていた。小学校の時に、アイコのアザが琵琶湖に似ているというクラスメートの言葉に、アイコ本人は若干得意になってしまったが、先生は、ひどいことを言うなと言う叱責をしたことで、アイコの心はかえって傷ついていた。

 

アイコは飲み会の帰り、飛坂に、過去の作品のデータを送ってもらい。それを見て、その素直な映像に惹かれ、飛坂と頻繁に会うようになる。いつの間にか二人は恋人同士になるが、飛坂の元カノで女優のまりえから、飛坂は映画を通じてしか女性を見ていないと言う言葉を投げられる。それでも、映画はクランクインし、撮影は順調に進んでいく。一方、何事にも映画を通じてしか自分を見ていない風の飛坂にアイコは疑問を感じ始める。

 

ある時、アイコは病院で、アザは時間をかければ消せることを診断される。そんな時、ミュウ先輩がラテンサークルの飲み会で衣装に火がついて顔に火傷を負ってしまう。病室を訪れたアイコは、何かが見えた気がし、飛坂に、二人の関係はこれからも今のままだと告げる。それは別れを意味していた。

 

学校の屋上で、ミュウ先輩は、アイコに化粧を施してアザを隠してしまう。二人は陽気にラテンのダンスを踊り始める。ミュウ先輩は、人は裸で生きているわけではないのだから、隠せるものは隠せばいいと言い、こうして映画は終わっていきます。

 

ありきたりの物語ではなく、ストレートに障害を見つめた上で、その価値観の勘違いを訴えかけて来る。そのテーマが実に素晴らしい。いい映画を見た感じです。

 

「川っぺりムコリッタ」

非日常の心象風景を日常の中に描いていくファンタジー映画でした。とってもいい映画ですが、ほんのちょっと長いですね。物語の中心はぶれていないけれど、傍のエピソードの配置がちょっと勿体無いところもちらほら、でもこういう映画は好きです。監督は萩上直子。

 

トンネルを抜けてこちらにやって来る列車、一人の男山田が駅に降り立って映画が始まる。彼はハイツムコリッタという平屋建ての長屋のようなアパートにやって来る。家主の南さんに挨拶をして部屋に入る。山田は、近くのイカの塩辛の工場で仕事を始めるが、ほとんど持ち合わせがなく、毎日の食事に困る。そんな時、突然、隣の島田という男が風呂を貸してくれとやって来る。周囲の人と距離を取りたい山田は、最初は断るが、そのうち、島田は裏庭の家庭菜園で作った野菜を持ってきたりし始める。そしていつの間にか一緒にご飯を食べ、風呂を借り、図々しく山田と付き合うようになる。

 

ここに越してきて間も無く、山田の父が孤独死したという連絡が福祉課から来る。山田は遺骨を引き取り、部屋に置くが、毎晩その遺骨が光って眠れなくなる。実は山田は、人を騙して金を取る詐欺のようなことをした前科があった。塩辛工場の沢田はそんな山田に、とにかく長く続けるようにと諭す。工場には中島という先輩がいるが、この存在が物語に何の必要があるのかが見えないのが気になります。

 

山田の向かいには墓石を売り歩く父溝口と息子の家族が住んでいる。アパートの前で大橋というお婆さんが花に水やりをしているのを見かけるが、実は大橋のお婆さんは二年前に亡くなっているのだという。川岸の粗大ごみの不法投棄の場所にはたくさんの電話などが捨てられていて、溝口の息子がピアニカを吹いている。

 

映画は、アパートの住人のさまざまな物語を群像劇のように綴っていきます。山田は、父の携帯の履歴から、最後に命の電話に電話したことを知る。しかし、役所の人の話では、自殺ではなかったのではないかという。傍に牛乳が残っていて、風呂上がりに飲んだのだろうということだった。風呂上がりに牛乳を飲む習慣は山田にもあった。命の電話に出た人は、かつて、金魚が空に舞うのを見たことがあるという。それは魂ではなかったのかと考えるというエピソードを話す。

 

南の主人は亡くなっていて、その遺骨を南は時々かじっている。南の娘が飼っていた金魚が死んでしまい、山田らと一緒にお墓に埋めてやりるが、突然、粗大ゴミの電話がなる。溝口の息子が出て、空を指差すと、何と巨大なイカの何かがふわふわと浮かんでいた。島田は、自分も連れて行って欲しいと号泣する。島田には息子がいたらしい。

 

台風が来て、島田は震えながら山田の家で蹲る。台風が去って、山田は、父の遺骨を河原で砕く。そばに来た南さんは、葬式をしてあげようと提案する。島田の幼馴染の坊さんがお経を読み、溝口や、その息子、島田さん、南さんらが川岸を弔いの行列を作って進んで行って映画は終わる。

 

人間の戻るところは、きっとどこかにあって、そこへ戻る。人生のほんのいっときの時間をムコリッタに重ね合わせて、人の命、人の人生について、山田という一人の男の父の孤独死を通じて淡々と描いたファンタジーという感じの映画でした。ちょっと長かった気がしないでもなく、もうちょっと思い切ってカットすべきを切れば、もっと言いたいメッセージがくっきり見えてきた気がします。でも、いい映画でした。