「西湖畔に生きる」
相当に見応えのある傑作だった。物語はマルチ商法に狂っていく母親を助ける息子の話なので暗いのだが、力強い筆致の演出でグイグイと画面に引き摺り込んでいく迫力がすごい。しかも、映像表現としてしっかりとした描写を試みているから、リアルを追求するよりも、感性に訴えてくる。なかなかの一本でした。監督はグー・シャオガン。
西湖のほとり、バスに揺られてタイホアは龍井茶の茶摘みの仕事のために寄宿舎へやってくるところから映画は幕を開ける。彼方に山起こしという行事で、大勢が松明を持って山に入っていく姿が映される。夫は十年前から行方不明でどこにいるかもわからなく、死んだのではないかと思われている。息子のムーリエンは母を楽にしたいため仕事を探していて、叔父の営む会社に勤める事になりそうだった。タイホアは、茶畑の主人チェンと親しくなり、末は再婚を考えていたが、ムーリエンは今も父が生きていると信じ探していた。
ところがチェンの母がチェンとタイホアが交際している事に激怒してタイホアを茶畑から追い出してしまう。タイホアは友人と寄宿舎を出るが、友人の弟が足裏シートという怪しい商品を扱うバタフライ社の社員であった事もあり、友人はタイホアを誘う。タイホアは半信半疑でバタフライ社のイベントに行き、力強く正当性と発展性、そして成功を訴えるワン・チンの大演説に次第に引き込まれて行ってしまう。
一方、ムーリエンは叔父の健康器具の会社にいたが、客を騙すように商売をする事に疑問を感じ、会社を辞めてしまう。ムーリエンは久しぶりに母タイホアに会ったが、以前とすっかり変わり化粧も派手になった母に呆気にとられてしまう。タイホアはすっかりバタフライ社に洗脳されて、自宅に大量の足裏シートを積み、その購入のために実家を手放していることを聞くにつけ、ムーリエンは母の目を覚まさせようと母のセールスイベントの会場へ行く。力強く商品を進めるタイホアの姿を見たムーリエンはその場で警察に連絡、一旦はタイホアらも逮捕されるが、警察はなんの詐欺の被害も証拠もない中タイホアを釈放する。
すっかりバタフライ社に洗脳されているタイホアは、ムーリエンを罵り、狂ったように自分は成功者だと豪語してチェンやムーリエンの前で踊り狂う。ムーリエンは母を救うべく、自らバタフライ社に入る事にして、ワン・チンのイベントに参加、証拠の動画などを撮りながらも、バタフライ社に賛同するかのように振る舞い、母とようやく打ち解け始める。ところが、たまたまムーリエンは、ワン・チンと母の友人の弟が話す現場に遭遇、ワン・チンが母の友人の弟を切り捨てるような発言をしているのを見る。友人の弟はようやく騙されたことを知り、姉に泣きついてしまう。
その頃、ワン・チンは、バタフライ社の社長らと祝宴を挙げていた。自分もマネージャーとなって上り詰め、約束の大金はいつ貰えるのかと経営陣らに絡むが、社長らは、これは全て詐欺だったとしゃあしゃあと白状する。ワン・チンは呆れる一方で社長を酒瓶で殴り暴れるが、今さらどうしようもなく崩れてしまう。全て詐欺だと判明、バタフライ社に全てを捧げた人々は絶望し、タイホアの上階に住んでいた人は飛び降り自殺する。タイホアは精神に異常をきたし入院、ムーリエンとチェンが看病を続ける。
ムーリエンはタイホアを治すべく、背負って西湖の山中に入っていく。そこには父の木、自分の木、家族の木があった。山の奥へ進んだムーリエンは、疲れ果てて眠ってしまうが、目を覚ますとタイホアがいない。深夜まで探し回り、洞窟の中に入って行ったが、足を滑らせて地下水湖に落ちてしまう。ムーリエンは西湖の辺りの岸に流れつき、そこにタイホアも流れついていた。タイホアが目覚めると、目の前に虎が迫っていた。思わずタイホアは唸り返すと虎は消えてしまう。正気に戻ったタイホアは、大自然の山の中で、全裸になって西湖の水で清められる。場面が変わり、すっかり元の姿になって龍井茶を友人らと摘んでいるタイホアがいた。ムーリエンはかつて父を探しに行った禅寺に行くが、そこで、父を知る人物がいるからと呼び止められて映画は幕を閉じる。
物語の構成、展開、緩急の効いた作劇で、単純なマルチ商法テーマの作品にせず、母と息子という親子の人間ドラマを大自然の中で生きる壮大なドラマとして分厚い仕上がりで作り上げたのは見事で、ここまで描き切られると、薄っぺらい娯楽映画を見る気が失せるほどの迫力だった。素晴らしい一本。
「助産師たちの夜が明ける」
相当に良かった。世界中で戦争をしているバカな大人たちに見て欲しくなる一本。目まぐるしいセリフとカメラワーク、ドキュメンタリーかと思わせる映像が縦横無尽に展開、その中で描かれる様々な人間ドラマに繰り返し繰り返し涙が止まらない。しかし、それもゆっくり感動している暇もないままに次のドラマが展開していく。見事な映画だった。ラストはややメッセージが前面に出てくるとはいえ、作品の迫力に押しつぶされるほど感動してしまいました。監督はレネ・フェネール。
スマホで母と激しくやり取りしながら走り込んでくるルイーズ、この日、助産師として友人のソフィと初出勤の日だった。しかし、病棟へ飛び込んだものの、走り回り助産師や医師の中で、行き場さえ見つからないまま右往左往する人々に飲み込まれていく。こうして映画は幕を開けるが、先輩の看護師に邪魔もの扱いさせられ、使い物にならないかのように、脇の仕事に追いやられる。しかし、いつのまにかソフィもルイーズも、この戦争のような状況に染まっていくからある意味怖い。
娘の出産に激しく口を出してくる女、路上生活で妊娠して運び込まれてくる妊婦、麻酔を打とうにも苦しむばかりで落ち着かない女、そんな中、ソフィはたまたま受け持った患者が子宮破裂を起こし、機材のトラブルも重なって、胎児が死にかけてしまう。助かったものの、異常に神経質になったソフィは、その後もモニター画面を被害妄想のように見つめるようになり、正常に生まれた赤ん坊に不必要な蘇生処置をしようとする。見かねた上司らは彼女をしばらく出勤禁止にする。同僚の男性看護師バランタンは、住むアパートを探していたがルイーズらが一緒に住んでもいいと提案して、近くで住むようになる。
そんな時、バランタンは、たまたま宅配ピザの配達員を呼びに行って駐車場でうずくまる路上生活者の母と娘を発見してしまう。優しすぎる彼は彼女たちを自分のアパートに勝手に連れていく。ソフィは賛成したがルイーズは大反対する。ある朝、赤ん坊を残して母親が出て行ってしまい、困ったソフィは赤ん坊を抱いて母を探しにいく。見つからず帰ってきたソフィの前に母がいた。母は赤ん坊に母乳を与え、故郷には別の子供がいるとソフィに話す。そして翌日、母娘はいなくなっていた。
職場に復帰したソフィだが、自信が戻らなかった。ルイーズらは彼女を信頼して患者をまかすが、その患者は、以前死産を経験し泣きじゃくるばかりだった。ソフィは必死で出産を助け無事赤ん坊が生まれる。ソフィの自信も戻り、ルイーズは新しくきた助産師に指導する立場になっていた。ベテランの助産師の女性は、中絶せざるを得なかった夫婦のもとに亡くなった赤ん坊を見せにいく。辛い思いのまま病室を出た彼女だが、更衣室でルイーズたちに、仕事を辞めると宣言して出て行ってしまう。人間的な扱いが全くなく酷使されるだけの環境に耐えられないと言う。カットが変わり、助産師の地位向上を訴えるデモの映像で映画は幕を閉じる。
まるでドキュメンタリーを見ているような映像だが、次々展開する様々なドラマが、ひしひしと胸に何者かを訴えてくる。その中で次第に映画のメッセージが見えてくる流れが見事で、映画を使って何かを伝えたいと言う熱い思いと、娯楽としての映画の本質を外さない演出に拍手してしまう映画だった。