くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ノスフェラトゥ」「愛と死をみつめて」

ノスフェラトウ

ノスフェラトゥ
30年近く前に始めてみたときは、正直しんどい映画だったという印象がありました。今回改めてみて、その原因が分かった気がします。芸術的な映像がちりばめられているためのようです。

ドラキュラ伯爵がジョナサンの妻ルーシーを訪ねる際の影を利用した不気味なショット、さらに、町中にネズミがはびこっていく不気味な演出、クライマックス、身を挺して伯爵をとどめ、夜明けの光がさっと射すときの鮮やかな黄色いライティングのすばらしさ、非常にブラム・ストーカーの原作の味を映像化した結果、いわゆるまじめな秀作に仕上がったためのようです。

F・W・ムルナウのサイレント版の名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)を見たことがありますが、そちらの作品は純粋にラストシーンで胸が熱くなる。吸血鬼を倒す手段は夜明けさえ気がつかないほどの女性の魅力でベッドにとどまらせることというロマンチックかつ本来の原作のラストシーンを再現することで見事に成功した作品だったからです。しかも、怖い。未公開作品なのでビデオだったかホール上映だったか忘れました。

今回のヘルツォーク版はそのリメイク的な様相の作品ですが、非常に感性の優れた映像演出は、ロマンティックというより美術作品のごとく完成されたために、ドラキュラ伯爵の心の葛藤とルーシーの身を呈して望む覚悟による悲哀が感情演出よりも映像演出として映し出されちょっと芸術的過ぎるといえなくもない。しかし、クラウス・キンスキーのドラキュラ伯爵の迫力、イザベル・アジャーニの美しさはすばらしい。

いずれにせよ、エピローグで、身を滅ぼしたドラキュラの跡継ぎとなるかのようにジョナサンが馬を飼って遙か彼方に走り去っていくエンディング、空に流れる雲、交響楽のような壮大な音楽効果は見事な締めくくりであったと思います。
あまりにも娯楽性よりも芸術性が強調されたために当初の製作年度1978年にはお蔵入りになり公開は1984年になっているのもうなづけますね。

「愛と死を見つめて」
名作というのはどういうものをいうのだろう。この作品は決してたくさんの賞をとったわけでも、ベストテンに選ばれたわけでもない。しかし、当時大ヒットしたし、今回スクリーンではじめてみたけれど引き込まれてしまったし、ラストでは泣いてしまいました。

阪大病院を舞台にした難病ものの実話の映画化であり、知る人ぞ知るあまりにも有名な純愛物語である。私はDVDで以前見たきりだったので、やはりスクリーンで見てなかったので、なぜ、この作品が大勢の人の涙を誘い大ヒットしたのかを検証したくて見に行った。しかし、いつのまにか浜田光夫吉永小百合の熱演にひきこまれ、気がつくとラストシーンで涙を浮かべてしまいました。途中の場面も全くだれることがなかったのは斎藤武市監督の真摯に真正面から物語に取り組んだ結果もありますが、脚本が「越後つついし親不知」の八木保太郎であることでちょっと納得がいきました。

さらに、脇を固める俳優が、やはり当時は本物の映画俳優だったということです。自分の役柄をわきまえ、主演の二人を引き立たせながら作品をまとめあげ観客に感動を呼び起こそうと真剣に取りくんでいる。そのすべてのコラボレーションがまとまって、美しいラブストーリーとして完成したのだと思います。

横長の画面を有効に利用し、暗闇の中にスポットライトが当たるように吉永小百合を浮かび上がらせたり、仰ぐように二人のショットを捕らえてみたり、巧みに過去をフラッシュバックさせてみたりとプロットの組み立てと映像の組み合わせが実に見事にマッチングしている。そして、映画として完成されているということ、これが一番なのです。やはり映画が娯楽の王様だったころの息吹が感じられる。余命いくばくかというのにやたら健康的である吉永小百合だとか、顔の半分の骨を摘出してあるのに普通にしゃべれるとか、そんなリアリティは誰も望んでいない。物語を追う上でせりふは聞き取れる必要があるのだし、死を間近にしているのにあまりに明るいから涙を注ぐのである。かかわってくる患者たちや医師、看護婦などが親しげに話しかける場面は果たしてどこまで現実化と思えるが、これは映画なのだということなのです。

その意味で、もちろん実話の映画化ではありますがそこにちゃんと映画としてのフィクションを交えた。今の映画に一番欠けているこの余裕こそがこの映画をそれなりのレベルの作品に仕上げた結果だろうと思います。

とはいえ、そんな理屈はどうでもいい。とにかく、素直に泣いてしまった。これぞ純愛映画の金字塔と呼べる一本でした。