「センセイ君主」
プロならもうちょっといい脚本がかけてもいいだろうという出来栄えの映画で、凡作の下の仕上がりの作品でした。ただ、浜辺美波が抜群に面白く、それだけでなんとか持っている感じでした。監督は月川翔。
主人公佐丸あゆは、高校に入れば普通に彼氏ができるもと思っていたが今だに七連敗。ひたむきで天然の彼女は、すき家でやけ食いをし、お金が足りず困っているところで一人のイケメンの青年に助けられる。
翌日、その青年がクラスの数学の先生で、弘光友貴という名前だとわかった佐丸は、猛アタックを開始する。
こうしてコミカルなアタックぶりが本編となる。まさに浜辺美波適役である。しかし、弘光先生はクールにいなし、全く相手にならない。この好対照が笑いを生み出すはずなのだが、弘光先生の竹内涼真が今ひとつさえないために浜辺美波が空回りしている。一人芝居のところは面白いが相手に掛け合いになると途端にテンポが悪い。ここを演出やカットで処理できたらいいにだがそれができていない。
この2人の攻防戦にお互いを慕う恋仇が絡んで展開するのですが、脇役がひたすら弱く、全く面白みが盛り上がって来ない。ラスト、一旦フランスに行きフィールズ賞をとって日本に戻ってきた弘光が、愛してるのは佐丸だったと告白してのエンディングに至っては、芸のなさに、開いた口が塞がらなかった。この辺はやはり脚本によるところが多いのだが、そこが残念。
せっかくの浜辺美波の実力が十分に発揮できないままに終わりました。まぁ、浜辺美波を見にいっただけなので構いませんが、ここまで雑な映画は流石に残念すぎます。
「野いちご」(デジタルリマスター版)
イングマール・ベルイマンの代表作の一本。今回見直して思うのですが、彼の作品の中の死は荘厳で美しい気がします。光と影をくっきりと駆使した絵作りもそうですが、主人公の教授に対する視線が実に美しい。これがルキノ・ヴィスコンティになると死は切なくも悲しいものに見える。
名誉博士号を得ることになりその授与式に向かう主人公の1日の物語です。冒頭の夢のシーンでの針のない時計や棺桶が道に投げ出されるショッキングなシーンに始まり、やがて車で目的地に向かうロードムービーとなる。
息子の妻と同席し、途中で三人の若者を乗せ、一時、夫婦喧嘩ばかりする夫婦を乗せたり、どこか、自分の若き日からの出来事を代弁するかのような展開がつづく。
そして目的地に着き、無事授与式を終え、一人ベッドに入り、子供の頃の夢を見る。岸の向こうに両親がいる。感慨にふけるかのような主人公の顔で映画が終わる。
淡々としているようで、画面から漂う神への問いかけ、死に対する視点、一人の男の人生、それぞれが一つの芸術となって結実する。これが映像の世界である。
毎回、陶酔感が襲ってくるが、見終わるとまた見て見たくなるから全くすごいものだと思う。どこにそんな魅力があるのかと聞かれても答えられない。それがベルイマン映画の魅力、映画の真の魅力なのかもしれません。
「第七の封印」(デジタルリマスター版)
圧倒的な映像表現で訴えてくる傑作。映像が物語を語るという究極の世界がこの作品にはあります。イングマール・ベルイマンの名を一気に広めた傑作を再見。やはり素晴らしい。
海岸で寝ている十字軍。十年の遠征ののち疲弊している隊長の前に真っ黒な衣装に身をまとった白塗りの男が現れる。そして、私は死であると告げる。死神を前に隊長はチェスをしようと提案。チェスをしている間は死を免れ、万一死神に勝ったときは解放してくれるように言う。しかし、そこにはすでに諦めにも似た姿も見られる。
家まで戻る途中、旅芸人の一座と会い、魔女裁判で処刑される少女に出会い、共に家を目指す。隊長が常に思うには神は我々を見ているのかという疑問である。
やがてチェスの試合も大詰めになり隊長の敗北が見えてくる。旅芸人の若い家族の男には死神が見えていた。隊長は死神の気をそらしその家族を逃がしてやる。
やがて疫病が近づいてくる。家に戻り久々の家族との再会をする隊長、傍に死神が立つ。
逃してもらった親子が彼方の丘を見ると、死神に連れられ進んでいく隊長たちの姿が見える。家族はそれを見届けて、馬車に乗って彼方に消えてエンディング。
登場人物の視線の先にある何者かの存在。しかし、傍に常に存在する死神の姿。人間にとってはっきりとわかる死に対し、生きる糧である神の姿は決して姿を現さない。その不条理を映像表現として語りかける演出力と感性に脱帽してしまいます。
ベルイマン芸術の魅力はそこにあるのでしょうか。未だその真髄は測りきれていない気がします。