「無法松の一生」
稲垣浩監督が自らリメイクし、ベネチア映画祭でグランプリを取った名作である。
なんといっても、色彩が抜群に美しい。そして花火や風船、屋台、古い町並み、芝居小屋、など様式美にこだわった映像づくりが抜群にすばらしい。
前作の阪妻版もみましたがそちらはさすがにかなりカットされ、字幕で処理された部分も多く、正直、今回のリメイク版の方が分かりやすいです。それに松五郎は三船敏郎の方が遙かに的を射ていてすばらしいとおもいました。もちろん、前作も傑作でしたが、それに引けをとらないと思います。
未亡人の吉岡の後家さん役が高峰秀子である。品のある中に非常に端正な美しさを漂わせた彼女の魅力が見事に発揮された役柄で、無骨ながら一途にプラトニックな愛にはしる三船敏郎の存在感とみごとに対象的で作品の質を高めています。
阪妻版の松五郎はひたすら影ながら吉岡の奥さんを見つめますが、今回の作品は祭りの後、吉岡邸を訪ねた松五郎があわや告白と呼べるような一歩手前までにいたるショットがあり、それに構える吉岡の妻のアクションなども挿入される当たり、時代の流れでしょうね。
色彩のトーン、セットをセットとしない自由なカメラワークが、歌舞伎のような様式美を生み出す映像はまさに国際の舞台にでてしかるべきな作品として仕上がっていました。車の車輪による時の流れの演出は前作とほとんど同じでした。
物語は今更いうまでもないものですが、ラストシーン、ひたすら後家さんのためにお金をためた通帳がでてくる場面では涙があふれている自分の姿がありました。前作同様、こちらも素晴らしい映画でした。
「女が階段を上る時」
成瀬巳喜男円熟期の傑作、さすがに女を描かせると成瀬巳喜男は抜群ですね。微妙に揺れ動く主人公の女心の変化が物語がすすむごとに変わっていく様が直接心に訴えかけるように伝わってきます。
階段を上るというのは、主人公圭子(高峰秀子)がつとめるバーライラックへ上る階段のことで、ここを上る時が一番悲しくでもあり、登り終えるとその日の風が吹くという冒頭の彼女のナレーションからきています。この階段を上るという行為が心が揺れながら変化していくということを最初の語ります。
物語は雇われママで銀座のバーライラックで働く主人公圭子(高峯秀子)がそこに出入りする客との心の交流、情念、さらにお金の絡み、そして、生活の苦しい実家の姿、彼女にひたすら思いを寄せるマネージャー謙一(仲代達矢)の姿がつづられていきます。
ネオンがところ狭しと点滅する路地の姿や、うらぶれた実家の情景、さらに、当時としては高級マンションのような圭子の住まいの描写が彼女の生きざまを映し出すようで非常に効果的に描かれていく。
映画が始まると、イラストのような影絵のはいったタイトルバック、本編が始まると、近所のバーのマダムが事故にあったという知らせから、圭子のつとめるバーの女の子たちが次々とあらぬ噂を語るショットが成瀬流の細かいカットで写され、銀座のバーの背景が的確に語られてから一気に本編へ入り込んでいくリズムが絶妙です。
見るからにたちの悪そうな客美濃部(小沢栄太郎)、一見人がよくていい人に見えていたが実は見栄っ張りの女たらしだったり松吉(加東大介)、ケチくさいだけの銀行員藤崎(森雅之)が、実は実直で家庭を大切にする好男子だったり、金に物をいわせる大阪からきた郷田(中村雁治郎)などを描きながら、彼らに絡む女たちの姿に女の性を映し出す演出は絶妙である。
結局、ひとときの夢で松吉との結婚を考えた圭子もその相手に裏切られ、ただ一人好きでよった勢いで体を許した藤崎も大阪へ去り、圭子を慕っていたマネージャー謙一も自分には脈がないと悟り彼女から離れ、一人になった圭子は再びバーライラックの階段を上る。すべての哀しみや苦しみを踏みしめる彼女の姿は店にはいるとその日の風が吹いてほほえみに変わる姿で映画が幕を閉じる。
テクニカルな演出は冒頭の部分だけで、後はひたすら圧倒的な見事な演出力で画面を見せていく成瀬監督の力量にうならされる作品であり、凡人にはとても文章にできないすばらしさがある。気がつくとラストシーンだったという、これこそ名作の貫禄と呼べる一本だったと思います。