くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「カイロ・タイム 〜異邦人〜」「眠れる美女」

カイロ・タイム

「カイロ・タイム〜異邦人〜」
タイトルが終わると、一人の女性ジュリエットが、夫が待つはずのカイロにやってくる。夫マイクは国連の仕事らしく、ガザにいるのだが、カイロで妻と観光をするために呼んだのである。しかし、ついてみると、マイクはいなくて、かつて彼の警護だったタレクが出迎える。

待てども、なかなかやってこないマイクに、孤独感がますジュリエットは、唯一の頼りのタレクとエジプトを観光してもらう。しかし、さりげない不安が募る中で、次第にジュリエットはタレクに曳かれ、タレクもまたジュリエットに曳かれる。そして、一線を越える直前、マイクが現れるという、非常にシンプルな物語である。

舞台はエジプトのカイロで、砂漠とピラミッドというイメージなのだが、なんとこの作品の特筆するところは、そのカメラが非常に美しいことです。市内や路地裏、店の内部をとらえるカメラの中に色彩豊かにとらえられる美しい画面に次第に見入ってしまう。単純かつ、ありきたりな物語なのに、この美しい画面が、最後まで飽きさせない魅力をこの映画に与えてくれるので、それだけでも見る価値が十分。

美しい画面にも関わらず、どこか不穏な空気が漂うことも事実で、ガザに一人でいこうとバスに乗ったジュリエットが、途中で軍人に保護される下りや、ホテルの前で米人であるというだけで殺されたというタレクが話すエピソード、バスで頼まれた手紙を、面倒に巻き込まれないようにタレクが当たり前のように中を見るシーンなど、細かいエピソードに、作品のムードをきっちり盛り込む演出はなかなかのものです。さらに、教育水準の低さや、町を歩くジュリエットに若者たちが好奇の目を向ける場面など、国柄もしっかり描かれている。

タレクと二人でピラミッドを見て、すっかりお互いが曳かれあったにも関わらず、マイクがやってきたことで現実に戻り、車の中で、何気なく涙するジュリエットが妙に切ないが、結局、すべて白紙になってマイクとジュリエットはピラミッドへ歩いていってエンディング。

淡いラブストーリーという作品で、最初はどうなることかと思ったが、映像の美しさと、丁寧に書き込まれた脚本が好感の一品でした。


眠れる美女
イタリアのマルコ・ベロッキオ監督作品であるが、ここまでまじめで、重たい作品で、ここまで内にこもった作品となると、確かに作品としてはクオリティは高いとはいえ、見終わった後、映画を楽しんだという充実感は全く残らなかった。

いわゆる尊厳死の問題を背景に描きながら、人間が生きるということ、死ぬということ、人と人との心の交わり、を徹底的に、画面を射抜くような鋭い視線で描いていく。

映画は、エルアーナという女性の尊厳死を巡る事件で、国会でその是非を問う法案の成立を巡る市民の反対運動、賛成運動のさなかに始まる。そして、エルアーナが死ぬまでのほぼ数日が描かれる。

国会議員のベッファルディはエルアーナの尊厳死を認める法案に、党から賛成の票を入れるように要求されている。しかし、彼はかつて自分の妻を、自ら延命装置のスイッチを切ったことで死に至らしめ、そのことで今なお悩んでいるし、そのことで娘のマリアとも溝ができているのである。

マリアは、父の議員としての方向に疑問を持ち、家を飛び出すが、とあるカフェで一人の情緒不安定の青年に水をかけられ、その兄ロベルトと恋に落ちる。いや、いきなりベッドインかと、さすがにこのマリアに嫌悪感さえ覚える展開。

ここに、大女優で、昏睡状態になった娘のために自宅に設備を置き、女優の仕事を捨てて看病している母もいる。その息子は、母を尊敬もしているので、眠り続けている妹に、快復するか、死んでほしいとさえ懇願し、生命維持装置をはずそうとする。そのため、さらに母とも溝ができる。

薬物依存の女ロッサは、盗みをしたり、金をたかったりするが、病院で捕まり、手首を切って入院させられる。病院側は彼女をすぐ追い出したいが、医師のバッリドが彼女を介抱し、何とか生きるすべを考えさせようとする。

この三つの物語が、交互に描かれ、背後にエルアーナの事件の法案検討の模様が語られる。

それぞれのエピソードは、決して手を抜かない重苦しい展開で、そのどれもが、見ている私たちに問題定義を続けていく。その気迫が画面から途切れることなく伝わってくるのである。

ベッファルディは、自分の意志に忠実になるため、議員辞職を覚悟で、反対する旨の演説の原稿さえ作るが、結局直前に、エルアーナは死んでしまう。しかし、そこには自分の妻を尊厳死させたこともかかれているのだ。

娘のマリアは、父が母を殺したと思っていたが、実は、父が母を抱きしめるのをのぞき見たことを思い出す。また、ロベルトは弟のことで、結局、マリアの元を去る。

息子が家を出てしまった大女優は、家中の鏡をはずさせ、娘の傍らに一人眠るが、寝言で「マクベス」の台詞を何度も語る。

マリアは、何度もかけてきた父の電話にようやく返答し、駅で抱き合った後、父を誤解していたと告白するが、その後、父の議員辞職の原稿を読むところでこのエピソードは終わる。

ロッサは、エルアーナが死んだというニュースの直後、窓から飛び降りようとするが、パッリドに助けられ、翌朝、眠るパッリドの靴を脱がし、窓を開ける。気がつくと、パッリドがロッサを見つめている。

こうして映画は終わる。

最後まで、私たちに投げかけられる問題定義は、本当に生きると言うこと、人と人の心の絆の意味、なのだろう。一見、父への誤解が解けたマリアだが、父の原稿にやはり母を殺したことがかかれているのだ。娘にすべてをかけると決心した大女優だが、心の奥底では女優への思いは断ち切れていない。生きることを決めたように見えるロッサだが、ここにもかすかな希望と裏腹な部分が見える。

はっきりした結論というか、監督のメッセージを明らかにせず、ひたすら重い、しんどい、生真面目、この作品はそういう映画だった。個人的には、あまり好みではないです。