くらのすけの映画日記

大阪の社会人サークル「映画マニアの映画倶楽部シネマラムール」管理人の映画鑑賞日記です。 あくまで忘備録としての個人BLOGであり、見た直後の感想を書き込んでいるので、ラストシーンまで書いています。ご了承ください

映画感想「海賊じいちゃんの贈りもの」「3泊4日、5時の鐘」「カスパ

kurawan2015-11-10

「海賊じいちゃんの贈りもの」
どういう映画なのか、全く前知識なしで見に行ったのですが、これが意外と楽しいし、ほんのりさせる面白い映画でした。そう、そんなちょっと個性的で楽しい映画なのですが、映像のテンポが微妙に狂っていて、もったいないところがあったのはちょっと残念。でも見てよかった感満載の一本でした。監督はアンディ・ハミルトン、ガイ・ジェンキンです。

おじいちゃんの75歳の誕生パーティに出かける準備をするマクラウド家から映画が始まる。いつも喧嘩をしている夫のダグと妻のアビー。そんな両親を冷ややかに見つめる長女、長男、次女。

長女は、日々の出来事を克明にメモるというメモ魔。次女は石に名前をつけて、一緒にパーティに行くという天然少女。長男は海賊やアドベンチャーに憧れる妄想家。

そして、マクラウド家はおじいちゃんの家にやってくる。そこには、成金の叔父ギャビンと精神不安定な妻マーガレットもいて、個性的な人物が集う。パーティは招待客二百人を超えるという、ちょっと日本では想像できない設定だが、物語はパーティシーンをクライマックスに・・・と思わせるのだ。

ところが、おじいちゃんは孫三人を連れて車で海岸に遊びに行き、なんと、そこで死んでしまう。長女が、家に戻り大人を呼ぼうとするが、両親も叔父さんたちも喧嘩ばかりしていてあてにならない様子を見て、引き返し、おじいちゃんが生前言っていたバイキングの様な葬儀をしてやることに。それは死体を船に乗せ火葬して沖に流すというもの。三人は海岸の木切れや漂流物を使い筏を作り、おじいちゃんを乗せ、火をつけて沖に流す。

そして、家に戻って大人たちに話すのだが、なんと警察やらマスコミやらが嗅ぎつけて大騒動になってしまう。これが後半部分。

細かく細分されたカットつなぎで、不思議なムードを生み出すのだが、三人の子供の如何にも純粋無垢なおかしさや、どこかファンタジックな装いの展開が、緩急を持たせないカットのために、全部滑ってしまう。ここはニンマリするところじゃないかと思うところもブツッと切れて次のシーンへ。その繰り返しが、せっかくの脚本のオリジナリティを壊してしまったのが本当に残念。

でも、それは日本ではということかもしれず、製作国のイギリスではあれが絶妙の間かもしれないですね。

結局、一騒動の果てに、両親も仲良しになり、どこか家族の絆が取り戻された様な流れになってエンディング。ちょっと楽しい、ちょっと面白い、ちょっとほんのりさせる、不思議な作品でした。でもこういうの大好きです。


「3泊4日、5時の鐘」
小品ですが、ちゃんと物語の作り方を踏まえた脚本に基づいた、ちょっとした映画でした。監督は三澤拓也という人です。

物語は、小津安二郎監督が脚本を執筆するために逗留したという、茅ヶ崎にある老舗旅館茅ヶ崎館を舞台に描かれる青春群像劇で、たわいのない女同士の諍いや、過去の恋愛への想い、不器用に表現しきれない若者たちの恋などを描いていく。

前半、主人公の真紀と花梨の極端なキャラクターわけで進むストーリーが、中盤でそれぞれが、実はそれぞれ行き着くところ同じ現代の女性だったと、過去のゼミの先生への失恋や、適当に遊ぼうとした学生アルバイトの男性への行き違いで、近づき、ラストは、結婚パーティで一緒に踊ってエンディング。

お話は真紀と花梨が、かつての職場の同僚で茅ヶ崎館の娘が、結婚パーティをするのでと呼ばれてやってくるところから始まる。その旅館に、大学のゼミの一団も呼ばれていて、旅館でバイトしている大学生も絡み、男女の微妙な時期の物語が始まる。

たわいのないストーリーだが、しっかり構成されたエピソードの配分と、軽やかな音楽をポイントごとに流したり、夕刻のメロディ、つまり5時の鐘を配分した映像作りが、とっても静かで、いい空気を作り出している。

傑作とかではないが、次の作品が期待できる監督の映画かなと思える一本でした。


「カスパー・ハウザーの謎」
1828年ニュルンベルグの路上に一人の青年が佇んでいた。言葉もしゃべらず、全く人間離れした彼はカスパー・ハウザーと名付けられ、一人の男に養われることになる。この不思議な出来事を基に、ヴェルナー・ヘルツォーク監督が描いた一本がこの作品。

映画史上無類なき傑作とされる一本だが、さすがに、私の感性ではその素晴らしさは理解できたのか疑わしい。しかし、映像感性に彩られて演出されたこの作品は、確かに別格の完成度だというのはわかる。

映画が始まると、歌声と共に、水面が映されカメラの先には一人の女性が洗濯をしている。そして暗転して、カスパー・ハウザーの史実が語られる。映像が現れると、クラシックの曲を背景に、ゆっくり揺れる草原、カメラが行く先に一人の男が地下牢の様なところに寝そべっている。一人の男がやってきて、手紙と、わずかな言葉を教え、担いで街中まで連れて行き姿をくらます。微動だにしないこの男を町の人が見つけ、彼が書いたカスパー・ハウザーの言葉で彼をカスパーと呼んで、面倒をみ始める。

言葉を教え、礼儀を教え、何年かが経つが、彼の言動は、人々との常識からおおきくはなれ、ある意味、自由奔放な発想と、普通の人々の及ばない言葉を発し始める。それは神の言葉の様でもあり、人々が常識と考えることへの異常さへの警告でもあるかの様だが、それは私の貧相な発想からの理解かもしれない。

ある日、カスパーは何者かに襲われ、命を失う。カスパーを解剖し、その脳や内臓が常人とはるかに違うと言う記述をして映画が終わる。果たして、彼は何者で、なぜ彼の様な男を育てたのか?全ては謎のままエンディングを迎える。

時に延々と長回しをし、時にクラシックの曲をバックに緩やかなシーンを挿入。カスパーの立ち居振る舞いは、異常な様で、意外にも普通に見えてしまう。いや彼の姿を見ていると、不思議に癒されるのである。その不可思議な人物の姿を、映像演出だけで見せるヘルツォークの感性の恐ろしさに、打ちのめされてしまうのだ。だからこそ、映画史上の傑作という評価が出たのだろう。確かに、素晴らしい一本だと思うけれど、見た直後の今では、その真価を語りきれない。