「教誨師」
ほとんど室内からでない舞台劇のような様相で、ひたすら主人公で教誨師の佐伯と死刑囚との対話を描いていく心理ドラマのような映画。確かに重厚だが、もう少し会話の展開にリズムがないと全体の作品の仕上がりがまとまらない。面白いのだが、もうちょっと脚本や演出に工夫が欲しかった。監督は佐藤大。
教誨師の佐伯が今日も死刑囚との会話を行なっている。次々と人が入れ替わり立ち替わり、様々な人々の人生や考え方が描かれていく。佐伯はそれぞれの人たちに、悔い改めることを解こうとするが時として相手の言葉に絶句してしまう瞬間もある。
佐伯の兄は少年時代にどうやら義理の父を殺したようで、その罪を悔いて自殺したらしい。このエピソードがもっと、死刑囚との対話の中で生きてくればいいのだが、ちょっともったいない。
死刑囚達の人生や、罪に至った経緯や、どんなことをしたのかが一部の人はわかりやすく見えてくるが、全く見えない人もいて、最後までややストレスになってくるとともに、しんどくなってくる。
やがて、刑の執行が決まり、対象の人物の執行の場に立ち会う佐伯。最後の最後で死刑囚が佐伯に思わず抱きついてしまう。
仕事が終わり、カバンを持って外に出ると、妻が迎えに来ている。途中、知人にあった妻は佐伯を残して車外へ。佐伯は、洗礼を望んだホームレスの老人にもらった雑誌のページを見ると、やっと覚えた字で「わたしたちをばっするのは、あなたがたなのか」というような意味ありげなことが書かれていた。
死刑囚を罰するのは果たして人間なのか、その問いかけに、ページを握りしめて歩いて行ってエンディング。
最後のシーンで全てを語るという手法ですが、ここまではっきり訴えるにはどうかと。しかもあの老人の言葉というのもちょっと違和感を感じてしまいました。でも、見応えもある一本でした。
「チューリップ・フィーバー 肖像に秘めた愛」
これは、意外にもなかなか見せてくれました。ほんの些細な偶然が次々と運命をあやつり、どんどん意図せぬ方向に展開していく様が見事で、下手をすると、訳がわからなくなりかけるところが見事に整理された脚本と映像演出に脱帽する映画でした。監督はジャスティン・チャドウウィック。
時は17世紀のアムステルダム。東洋から来たチューリップが投機取引の対象で熱を帯びている時代。孤児院にいたソフィアがサンツフォールド家のコルネリスの妻として孤児院を出るところから映画が始まる。
なんとか跡取りを作りたいと励むコルネリスだが、なかなかソフィアは身籠もらない。コルネリスはかつての妻との間に子ができたが二人とも死に、しかもその妻も他界したのだ。
ここに女中のマリアがいて、魚売りで出入りしているウィレムと恋仲だった。ウィレムはチューリップに投資し、マリアとの結婚を前向きに考えていた。
ある時、コルネリスは肖像画を描いてもらおうと若い画家ヤンを迎える。しかし間も無くしてヤンとソフィアの間には恋愛感情が生まれる。ある時、マリアのショールをかぶってヤンに会いに行ったソフィアを遠目に見たウィレムはてっきりマリアが画家といい仲になったと勘違い、そのあとチューリップ取引所で金を奪われたウィレムは盗んだ女を罵倒し、その女の兄に袋だたきに会い、海軍に無理やり入隊させられてしまう。
そうとは知らないマリアは、行方不明になったウィレムは自分を捨てたと勘違い、さらにウィレムとの間に子供ができたことを知る。絶望するマリアに、ソフィアはある提案をする。マリアの子供を自分の子供として産むように偽装することを計画、マリアはソフィアとヤンの関係も知っていたため、お互いの利のために共謀する。
一方ヤンは、自分の全財産をチューリップに投資し、次第に財を築いていた。
やがて臨月となり、マリアに陣痛が始まる。巧みにコルネリスに隠して無事出産。医者と共謀して、ソフィアは、疫病にもかかっていて死んでしまったとコルネリスに報告してもらい、マリアが赤ん坊を抱いてコルネリスの前に出る。ソフィアは棺に入り、ヤンとの待ち合わせの場所へ。ヤンは希少な球根を投機所で取引を行い巨額の取引を成立させる。
ところが待ち合わせ場所で、棺を出たソフィアは、これは罪だと改心し、家に駆け戻るが、幸せそうに赤ん坊を抱いているコルネリスを見て、自分の戻るところはないと判断、そのまま家を去る。途中、いつも身にまとっていたブルーのガウンを港に捨てて何処かへ去る。
一方ヤンは、巨額の取引の決済に、球根を取りにアル中の友人に行かせるが、帰り道酒を飲んでしまい球根を食べてしまう。全ての取引もご破算となり、文無しになったヤンは、ソフィアとの待ち合わせ場所に行くが、ソフィアが行方をくらましたと知り、家に向かう。途中、港でブルーのガウンが引き上げられるのを見ててっきりソフィアは自殺したと勘違いする。
一方、マリアの元にウィレムがかえってくる。そして、マリアと画家のことを問い詰めるが、それはソフィと画家だったことを説明、それをコルネリスが聞いていた。そして、マリアとウィレム、そして娘のために自分の財産を全て譲り、東インドへと旅立っていく。
8年が過ぎ、ヤンは画家としてそれなりの仕事をしていた。そんな彼に修道院の院長が修道院内の絵を頼む。修道院にやってきたヤンはそこで修道女となったソフィと再会、ソフィが生きていたことを知る。
一方、ウィレムとマリアはコルネリスの家で子沢山に恵まれ、サンツフォールドの家系を継いでいた。そして最初に生まれた女の子にはソフィと名付けて育てていた。コルネリスも行き先で家族を設けていたというナレーションが入り映画が終わる。
運命のいたずらか、ほんのわずかな偶然が生み出す奇遇な出来事に翻弄されていく人々の姿が見事に整理されて語られる脚本が見事な作品で、こういうクオリティの高い映画を見ると、やはり、まず脚本の大切さを実感してしまいます。本当に、なかなかの秀作でした。
「パーフェクトワールド君といる奇跡」
よくあるエピソードの数々が羅列されるだけの展開と、次のセリフが予測されてしまう雑な脚本に、辟易としてしまう映画だった。原作があるので、映像化する段階での適当さがこういう映画にしたのだろう。しかも、演技のできる杉咲花をこういう適当な使い方をしたのはさすがにひどい。まあ杉咲花目当てで行った映画なのでいいと言えばいいにですが、ちょっとあんまりな一本でした。監督は柴山健次。
インテリアデザイナーのつぐみは仕事先で高校時代の憧れの先輩鮎川と再会する。というよくあるオープニングだが、ここからあまりに芸のない演出と展開が続く。
実は鮎川は事故で車椅子生活になっていた。そして学生時代に付き合っていた彼女とも別れ、一生一人で生きると決めていた。と、告げるにもかかわらず、あっさりつぐみと付き合うことになり、恋愛展開になる。この変化が全く描かれていない。
しかも、何気ないシーンを雑に処理しているために、さらに映画がしまっていかない。流れとしてつぐみの両親の反対や、鮎川のトラブルも挿入され、使い尽くされたエピソードが次々と出てくる。
それもありなのはわかるが、その辺りはもっと脚本やセリフを練らないといけないと思う。さらに、突然、よくわからないが命に関わる手術をすることになった鮎川の元に、一旦は別れたつぐみが駆けつけて、もう死んでしまうんじゃないかという手紙をつぐみがもらう。
次のカットで高校の桜の木を見る二人のシーンから、鮎川がつぐみにプロポーズして、エンディング。結婚式のシーンがエンディングタイトルにかぶる。
流石にこれはないやろうという映画だった。アイドル映画でも作りようというのはあると思うし、過去にもたくさん名作が生まれている。要するに姿勢の問題なだけなのだと思います。