「神は死んだのか」
これは相当よくできた作品だった。扱われるテーマは、神の存在を肯定するか否定するかという問題で、クリスチャンではない私たちには縁のない世界のはずなのだが、ストーリーの構成が実にうまい上に、エピソードの組立が見事で、エンターテインメントとしても、一級品に近い為に、最後には、映画のテーマである神の存在に賛辞を送ってしまうのである。
映画は、ある大学のキャンパスに始まる。これから学生たちが受ける予定の、哲学者で無神論者のラディソン教授の講義の申し込みをしている。
一方で、一人の神父が黒人の友人を迎えている。かれはその友人とディズニーランドへ行くべくレンタカーを頼むが、どれも彼が運転しようとすると故障する。
ここに大学で働くアラブの女性。父から神を信じることを否定され、黒いショールで顔を覆っている。しかし、この女性は神を信じている。
ラディソン教授には妻がいる。しかし、彼女は神を信じ、彼氏のラディソン教授の考えに否定的である。
さらに、一人のルポライターがいる。彼女には実業家で成功した彼氏がいる。アラディソン教授の妻の兄でもあるが、このルポライターはガンを宣告され余命幾ばくもなくなる。
ここに一人の東洋人がいる。彼もまた神の存在に疑問を持っているが、ジョシュの主張を聞いているうちに存在に肯定的になる。しかし、父は大反対である。
様々な人々のエピソードが紹介され、ラディソン教授の授業へ。ここで彼は生徒たちに「神は死んだ」と書かせ、サインさせるが、一人の学生ジュシュがそれに反論、毎回の授業で、教授を論破できれば認めようとラディソン教授に挑戦される。
物語はこのラディソン教授とジョシュの討論シーンを中心に、それぞれの人々の揺れるこころ、些細なエピソードが繰り返される。
そして、最後の最後、ラディソン教授がなぜ無神論者になったのか、それは、母が死んだときに、神に救いを求めたが、受け入れられなかったことによると判明、そこをついたジュシュは、そもそも、神の存在を認めていたから無神論者になったのだと、最後につめて論破する。
クライマックスはヘイスティングスホールでのゴスペルソングのコンサート場、様々な人々が、ここへ集まってくる。そして、それぞれが、神の心にうたれ、ミュージシャンの訴えで、登録しているメアドに一斉に「神は死んでいない」とメールを送る。
神の存在に気付いたラディソン教授もこの会場にいる妻の元へ向かうが、途中で、事故に遭う。そこに、神父と黒人の乗った車が居合わせ、神父が、「最後に神を信じるか」と語り、ラディソン教授もそれを受け入れて死んでいく。
ジョシュがラディソン教授を打ち負かすクライマックスは見事なサスペンスエンターテインメントであり、途中のさまざまなエピソードは、様々なジャンルの人間ドラマ、コミカルなお話になっている。
一つ一つを丁寧に感想は書けないが、それほど、どのエピソードも完成度が高く、それが一つにまとまるクライマックスは、すばらしいのである。
全米で起こっている神の存在に関する訴訟事件に啓発されて作られたと言うが、それは別にしても、これは傑作となる一本ではないかと思うのです。本当にいい映画を見た感じです。
延々と流れるエンディングタイトルのバックのゴスペルソングがすばらしい、
「天国は、ほんとうにある」
アメリカで起こった実際の出来事を元にした作品。映画はリトアニアで一人の少女が絵を描いているシーンに始まる。
カットが変わると、アメリカネブラスカ州の広大な大地。牧師のトッドがガレージの修理をしている。彼はレスリングのコーチや消防隊員もこなす毎日だが、正直、生活は苦しい。
ある日、デンバーへ家族で出かけて帰ると、娘のキャシーと息子のコルトンが嘔吐を繰り返す。姉はすぐに直るが、コルトンが苦熱が続くので病院に行くと、虫垂炎が破裂して危険な状態だという。しかし、トッドやその家族隣人の祈りが届いたのか、コルトンは助かる。
しかし、帰ってきたコルトンは、知っているはずもない、トッドが教会で叫ぶ姿や、母が祈りを頼んでいる電話の姿を見てきたようにはなす。さらに、天国で、イエスと思われる一や、天使にあったという。
最初は信じがたかったが、ぽつりぽつりをいうコルトンの話には、知るはずのないことがたくさんあり、やがて、トッドは教会の説教の場でもこの話をし、新聞にも載る。
物語は、この少年コルトンが語る話を通じて、人々が、信仰心に集まっていく様子を描いている。冒頭の絵は、コルトンと同じ体験押した少女の書いたイエスの絵で、コルトンが見てきたのも彼だといって映画は終わる。
丁寧に作られた映像が美しい一本で、実話をほとんど飾ることなく描かれていると思う。その意味まじめな作品で、妙な大人のエゴや騒々しさは全く描かずに、ストレートにコルトンの見た奇跡にこころ動かされていく周辺の大人の姿を描いているのが好感な一本でした。