「お坊さまと鉄砲」
めちゃくちゃいい映画だった。あまりに大きなものを見せられて自分がいかに小さいかと涙が出てしまった。物語の構成も巧みでサスペンスフルに展開するし、ラストに向けての謎が明らかになるともうたまらなく感動してしまいました。とにかくいい映画だった。世界中の人たちに是非見て欲しい作品だった。監督はパオ・チョニン・ドルジ。
2006年、ブータン国王は行政権を放棄、これによりブータンは近代化、民主化へ進む事になったとテロップの後、広がる麦畑の美しい景色、彼方から修行僧のタシが歩いてくるところから映画は幕を開ける。タシは師であるラマの元を訪れる。ラマは瞑想の修行中だった。タシがラジオをつけると、民主化に伴う選挙の模擬選挙が行われるというニュースと。選挙委員会からこの村に模擬選挙の説明に委員がやってくると流れる。ラマは、四日後の満月の夜までに二丁の銃を手に入れるようにタシに指示するが、タシは銃を見たこともなかった。
タシはウラ村に降りて、カフェでテレビに映る007が持っている銃を見て銃を知る事になる。その頃、街で観光ガイドをするベンジは、アメリカ人のロンを出迎えていた。ロンはウラ村のペンジャという男が持つ銃を買い取りに来た。ベンジはロンを連れてペンジャの家に行き、銃を見せてもらう。それは南北戦争の時に大勢の人間を殺したと家に伝わるクラシックな銃だった。ロンは金に糸目はつけないと大金を提示するが、ペンジャはもらい過ぎだからと値段を下げてくる。ようやく折り合いがつき、後ほど金をもって再訪すると約束して家を出るが、入れ替わりに、タシがやってくる。タシはペンジャが銃を持っているという情報で訪ねてきたのだ。
タシはラマが満月の夜までに銃が必要であることを告げると、供物として銃を差し出すことを快諾する。タシは銃を手にしてラマの元へ急ぐ。その頃、村には選挙委員会のツェリンとプバがやってきて模擬選挙のための投票権のある村人の登録を始めるが遅々として進まなかった。この村で選挙の準備を手伝うチョペルは、妻ツァモの母が支持する候補者と敵対する候補者を支持していたために仲が悪くなっていた。さらに娘のユペルも学校でいじめられるようになってくる。
ベンジとロンは金をもってペンジャの家に戻ってきたが、銃がタシの手に渡ったことを知る。急いで後を追うが、タシは村に戻る途中ツェリンの車に乗せてもらって、ひと足先に村に戻っていた。ようやく追いついたベンジらは、銃が貴重なものなのだと説得するもタシは二丁の銃が必要だからと断る。ベンジは別の最新の銃二丁を準備するからと言ってタシを納得させるがタシはテレビでジェームズ・ボンドが持っていたAK-24という銃を希望する。
ロンはインドから密輸でAK-24を満月の夜までに手に入れると約束し、法要の日に引き換えることが決まる。その頃、ベンジの家に警察が来ていた。銃の密輸をしているロンを探しているのだという。たまたま、テレビの中継でウラ村にいるロンを見かけた警官はウラ村に向かう。
満月の夜の法要の日に、模擬選挙は行われるが、村人は結局意味を理解せず、失敗に終わる。ラマはタシに伴われ、銃を持って法要を始める。村人たちが囲む中、ラマは、新しい仏塔を建てる必要を解く。仏塔の下には食物を埋めれば飢饉がなくなり薬を埋めれば疫病がなくなる。今、諍いの元になる銃を埋めることが必要だと解く。その頃、警官はロン達を拘束していたがタシに勧められ法要に参加する事になる。ベンジは機転を効かし、ロンが持っていたAK-24は、仏塔に埋めるためにようやく手に入れたものだと警官に説明、ロンは逮捕を免れるべくAK-24を穴に投げ入れる。警官も手持ちの銃を投げ入れる。子供達はおもちゃの銃を投げ入れる。穴にはセメントが注ぎ込まれ、村人やツェリン、ツォモ、ユペルらが見守る中、法要は終わり、夜満月の下で村人達は踊る。
翌日、街に帰るツェリンらはツォモやユペルと別れの挨拶をする。ユペルはツェリンにもらった消しゴムをツェリンに返す。タシはまた修行の旅に旅立っていく姿で映画は終わる。
近代化の意味、民主化の意味、それを問うかの展開から人々の諍いを懸念し、そして平和を祈念するクライマックスへ流れるさまが、素朴な景色と人々の姿を通して描いていく手腕が素晴らしい。銃の取得する経緯のサスペンス、ラマの目的を探すミステリー色も映画を面白く盛り上げ、ラストはなんとも言えない心が洗われた感動で涙してしまった。本当にいい映画だった。
「ペパーミントソーダ」
思春期の少女の瑞々しい日常を切り取った作品で、一本筋の通った展開の映画ではないけれど、細切れに描かれるエピソードの数々を体験していく中で、あまりにも幼く、それでいて必死で背伸びする主人公達の1963年当時の一生懸命な姿がとっても爽やかな映画だった。監督はディアーヌ・キュリス。デビュー作である。
浜辺で、アンヌとその姉フレデリック、そして姉の恋人マルクがふざけている場面から映画は幕を開ける。フレデリックとマルクが海に入っていき、一人拗ねたようにアンヌが残る。時は1963年、厳格な女子校リセ・ジュール・フェリー校に通うアンヌとフレデリック。両親は離婚し、母と暮らしている。ある日、アンヌは姉フレデリック宛に来たマルクの手紙を盗み見て、同封の写真を取り、自分の彼氏であるように友達に吹聴、さらに男女関係の話まででっち上げる。まだまだ13歳で生理も来ていないアンヌ達はSEXに興味津々の会話を繰り返す。その惚けた純粋さがまず楽しい。学校帰り、カフェでペパーミントソーダを頼んだアンヌだが、フレデリックに見つかって家に帰らされる。
アンヌは学校では、何かにつけて背伸びして授業をサボったり、友達に自慢話をしたりする。一方、二つ年上のフレデリックは、マルクとダンスパーティに行ったりするが、アンヌはついていっても面白くなかった。フレデリックはマルクと泊まりがけで旅行に行く事になるが、フレデリックのクラスメートのミュリエルが家出をしたと連絡が入り、マルクに興味が薄れていたフレデリックは、マルクと別れて帰ってくる。ミュリエルは、戻ってきたものの、学校を辞めて美大に行く事にしたとフレデリックに告白する。
映画は、授業中に自己主張をして先生を困らせたり、嫌いな先生に悪戯を仕掛けたり、政治活動に手を出してみたりと、さまざまな問題が起こっていく。母には恋人もでき、やがて学年末の劇の発表の日が来る。フレデリックの舞台を見つめるアンヌと母親だが、会場には別居している父の姿もあった。やがてバカンス、アンヌとフレデリックは父のところへ向かうために母に見送られて列車に乗る。浜辺でアンヌ、フレデリック、父親の楽しげなショットが挿入されて、アンヌが一人海岸で振り返るアップで映画は終わる。
一本の筋は存在せず、アンヌとフレデリックが暮らす学校でのさまざまを羅列していく展開の作品で、所々にまだまだ未熟な少女達の姿と、大人の常識が挿入されるチグハグさがちょっとしたリズムを生み出して一本の作品に仕上がっている。純粋で素朴な青春映画という雰囲気の心地よい映画でした。
「映画 ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」
子供向けのたわいないファンタジードラマだった。まあそれほど期待はしていなかったけれど、だから子供向けなら一級品かというとちょっと物足りない。なぜこうなるかというカリスマ的な物語を掘り下げて映像で楽しませれば面白い映画になるのですが、とりあえず安直に作ったという一本でした。監督は中田秀夫。
小学校の教室、一人の少年がテストを返してもらうものの、点数はかなり悪く、家に帰って母親に叱られた挙句、結局塾へ行く事になる。気乗りしない少年が塾の前で黒猫を見つけて追いかけていくと銭天堂という一軒の駄菓子屋に辿り着く。そこの主人紅子は少年に、ヤマカンが当たるお菓子を与える。
この小学校に赴任してきた小太郎は、銭天堂の噂を耳にする。彼には後輩の相田陽子という友達がいた。彼女はファッション雑誌の編集の仕事をしていたが、同僚はみんなセンスが良くて、劣等感を持っていた。そんな彼女の前に黒猫が現れ、銭天堂に案内される。そしてファッションセンスがよくなるようになるが、欲望は限りなく、ブランド品などを手に入れられなくなる。そこで彼女は、たたりめ堂という駄菓子屋にたどり着く。そこの主人よどみは、人の悪意、嫉みを集めるための駄菓子を売っていた。その菓子を食べた相田は、狂ったように着飾るようになり、周囲の妬みを買い始める。それでも止まるところを知らず、小太郎の前で苦しみ、よどみに悪意を吸い取られてしまう。
小太郎には美大を目指す妹まどかがいた。しかし最近予備校の友達が自分より上手になって、見下げられるようになっていた。そんなまどかの前に黒猫が現れ銭天堂に誘われる。そこでまどかが欲したのは、人を妬まなくなる水飴だった。ところが、それを良しとしないよどみは、無理やり悪意を吸い取ろうと迫ってくる。
妹が銭天堂の菓子を手にれたと知った小太郎は予備校に向かう。そこへ紅子も現れ、よどみの暗黒空間に引き込まれたまどか達を救うために暗黒空間に飛び込む。そしてまどか達は救出できたが、よどみは逆恨みし、銭天堂を破壊するべく悪意の塊を銭天堂に投げつけようとする。すんでのところで一瞬で氷になる菓子を紅子がよどみに食べさせ、よどみは氷になってしまう。
実は小太郎も少年の頃、銭天堂で、堂々と生きる駄菓子を買っていた。最初はお菓子に頼っていたがその後も、自分で堂々と生きてきたので今があると言われる。そして、小太郎は相田に好きだと告白する。冒頭の少年も、自分で勉強をするようになっていた。駄菓子を食べてもそれを活かすのは本人次第だと紅子が呟いて映画は終わる。
児童向けの原作そのままに映像化した感じで、特に凝った事にチャレンジするわけでもない普通の映画だった。