「ダーケストアワー消滅」
「プロメテウス」のスタッフとティマール・ベクマンベトフが関与したというSF映画。まぁ,B級映画と高をくくって見たのですが、意外とおもしろかった。ストーリーや設定が丁寧に組み立てられているのでダレないのです。
宇宙を背景に意味ありげなタイトルバックが終わるといきなり真上から旅客機のショット。主人公ショーンと友人のベンが飛行機に乗っている。ゲーム機器を使っていて電磁波がでると注意される導入部にこれからの物語の伏線を張るのはなかなかの懲りようである。テンポいい曲を最初のあたりに配置して画面をリズミカルにして本編へ流していく演出はなかなかのおもしろさがあります。
雷による突然の停電異常が発生するも無事にモスクワへ。そこで予定していたビジネスがうまくいかず、その夜、不気味なオーロラがでて、そのまま光を帯びた宇宙人らしき物体が次々と飛来してくる。そして、一瞬で人間を破壊しながら姿無く迫ってくる恐怖。物語の本編へ一気に引き込むファーストシーンは切れがよくてうまい。
さて、ここからは例によって主人公たちのサバイバルゲームとなっていくが、敵が目に見えない。唯一電気器具を動かしてその存在を示すという手がかりをもとに戦ったり逃げたりとはらはらドキドキ。この設定もなかなか見せてくれますし、気持ちがいいほどに人間を粉々に破壊するシーンは妙なだらだらがないから物語がスピーデイに進む。
逃亡劇の中で何となく敵の目的と弱点らしきものが説明されていって、最後は原潜へ逃げ込んで反撃を始めてエンディング。
ありきたりの話ながら、それぞれのエピソードに無駄が無く、この宇宙人がどこからきてどうこうという面倒な説明はいっさいカットしてある小気味良さがストーリーを簡潔にして手際よく見せていくことになったのかもしれません。
宇宙人の姿も光の中ではっきりとは描かずに、バラバラになってしまうという設定、人間の破壊シーンなどティムール・ベクマンベトフらしい描写ですが、すっきりした物語構成で丁寧に娯楽作品に仕上げられていて、B級と割り切ってもそれほど損をしたと思わせられないだけのレベルの映画だったかなと思います。
「007スカイホール」
アクション映画を大作で撮るとこうなるという典型的な完成品である。とにかくおもしろい。空撮を使った大胆なシーン、スコットランドの美しい景色を舞台にしたクライマックス。ファーストシーンのおきまりの派手なカーチェイスのシーン、そしてミステリアスな物語、アストンマーティンを登場させる過去の作品へのオマージュそして、ジュディ・ディンチ扮するMの死による新しい007シリーズへのスタートとあらゆるエッセンスを凝縮させて、緩急を交えた見せ場のバランスの配置で最後まで飽きさせなく見せてくれる。
とはいえ、大作ゆえの散漫さはいなめないし、だれるほどの間延びするシーンはないものの、やはりアクション映画は程々の長さで切れのいい展開で一気につっぱしたほうがいいかなというのも私も感想です。
いきなりの格闘シーンから始まるファーストシーン。細かいカットの組立で見せるカーチェイスのシーンは緊張感満点。それに続く列車の上でのシーンから撃たれて落下するジェームズ・ボンド。そして物語は本編へ。
Mに恨みを抱く犯人ラウルからの執拗な攻撃に半ば受け身のように防戦体制で立ち向かうジェームズ・ボンドの姿が今回の作品の流れの特徴である。ほとんどが能動的攻撃的な展開で進むこのシリーズにしては大人のドラマに終始している。
クライマックスでは007といえばこれというほどのアストンマーティンが登場。ジェームズ・ボンドの生家にまで舞台を移してそこで正当な銃撃戦の後勝利、しかしMは死んでしまう。それにしても、MI6ほどのコンピューターシステムがいとも簡単にハッキングされるというのもどうかと思えなくもないですが。
はでな新兵器がでるわけでもいものの、アクションだけにとどまらず多方面にエピソードを交えて深い内容に仕上げたまさに大作であり、50周年作品の貫禄十分な一本でした。
「尼僧ヨアンナ」
乾いたような辺境の寒村。その中の飲み屋、そして少し離れた丘の上にある修道院。修道院のでてすぐのところにかつて神父が火あぶりにあったという跡がある。そんな空間の配置の中で、愛と宗教倫理との微妙なバランスが揺れ動くピリピリする繊細なラブストーリーが展開する。
監督は「夜行列車」のイエジー・カヴァレロヴィッチ。
床に伏して逆さ十字架のようなすがたの一人の神父のショットを背景にタイトルが始まる。悪魔にとりつかれたという修道院の尼僧ヨアンナ。かつていたガルニエツ神父はヨアンナに悪魔を乗り移らせたという罪で処刑されている。この修道院に悪魔払いのためにスリン神父が遣わされるところから映画が始まる。
村の酒場で村人たちに尼僧たちのみだらな様子を吹聴されるスリン神父。そんなことをはねつけてヨアンナにあうスリン神父だが、ヨアンナは突然豹変して悪魔の言葉を発する。さらに他の尼僧たちも奇妙なダンスをする。
美しいヨアンナに悪魔が宿っているというが、それは一人の女性としての素直な欲望なのではないかと感じる。真っ白な出で立ちのヨアンナに対するスリン神父の黒い修道服が対照的に画面を描写していく。必死で否定するスリン神父の行動と悪魔に乗り移られたというヨアンナとの葛藤が繰り返されるのだが、次第に二人は奇妙な感覚で愛を確かめあっていくように見える。
宗教倫理を貫くことが正しいのかどうか不安になってくるヨアンナ、そしてスリン神父さえも。このまま悪魔に魅入られたままの方が素直な自分なのではないかとさえ語るヨアンナに、とうとうスリン神父は口づけをする。ところがそのとたん悪魔はスリン神父へ乗り移る。と物語は展開するが、スリン神父が愛に目覚めただけではないのかとさえ考えてしまうのである。
そして、神父はヨアンナとのラブシーンをのぞき見していた男二人を斧で殺してしまうのだ。神に仕える身を捨てて一人の男になった瞬間が暗闇に不気味にたつスリン神父の姿に投影される。
丘の上の修道院と酒場、ヨアンナを遮る格子、窓から見下ろす村のショットなど考え尽くされた画面の構図がこの不安定な愛の物語を象徴していくように思える。
どうも、愛と宗教感という問題はカトリック教徒ではない私には十分に理解できたとはいえないのだが、作品のすばらしさには頭が下がる一本でした。